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 ①  隅田川決戦 

 

 1968年1月3日、国際改めTBSプロレスのテレビ放映第1戦が日大講堂で開催されたが、同日またしても日本プロレスが川を挟んだ向かいにある蔵前国技館で興行をぶつけてくる。"大阪夏の陣"以来となる同日興行となり”隅田川決戦”などと呼ばれマスコミの話題になった。まず、日プロの蔵前大会は昨年末、馬場のインターナショナル王座に挑戦するも反則絡みで敗れた"粉砕者"クラッシャー・リソワスキーを再来日させ、馬場との決着戦を行うビッグカードを用意。試合は14分30秒、32文ロケット砲でリソワスキーを押さえ18度目のインター王座防衛。テレビ放送は5時半からの1時間でこの時間帯としては驚異の36.3%を記録、観客は1万2000人を集めた。

 

 一方、TBSプロレスは"秒単位でシンデレラ・ボーイ誕生"を高言した通り、なんのキャリアもないグレート草津を"20世紀最大のレスラー"ルー・テーズに挑戦させる。ブッカーのグレート東郷らも草津の挑戦には反対していたがTBSの強い意向で決行。ところが試合は17分50秒、テーズの放ったバックドロップで立ち上がれなくなった草津が試合放棄するバックドロップ失神事件が起こってしまう。草津の受け身があまりに未熟だったのか、テーズが故意にノックアウトしたのかは明らかになっていないが、百戦錬磨のテーズを相手にするのには草津ではあまりに役不足だったことは間違いない。2年前インター王座初防衛戦で戦った馬場でさえ「50を超えてあの強さなら30代の強さは想像もつかない」と語るほどに、テーズはセメントの実力も兼ね備えいていたのだ。かくしてTBSのシンデレラ・ボーイ誕生物語は早くも頓挫しまったのである。ただ視聴率は32.3%と健闘。2団体によるプロレス中継の視聴率争いはその後も激化していく。

 

 ②  グレート東郷襲撃事件 

 

 かつて力道山の急死後「以後は日本マットとは関わらない」という約束で日本プロレスから手切れ金を受け取っていたグレート東郷だが、それを反故にして再びTBS(国際)プロレスのブッカーとして日本に上陸を果たしたことで日プロ幹部は激怒していた。そんな中、日プロ主力の大木金太郎を引き抜く工作まで行おうとしたことで1月17日、東郷は宿泊中のホテルニューオータニでユセフ・トルコ(※日プロ所属レフェリー)に襲撃され暴行を受ける。トルコは東郷を殴ったあと、自分の顔を殴って血まみれとなり警察に出頭。この行為に警察も「喧嘩するならリングで」という注意処分しかとれなくなり傷害事件の立件には至らなかった。

 

 この一件で東郷は"レフェリーより弱かった世紀の悪玉"と新聞に書きたてられ大きく面目を失った。社長の芳の里は表面上トルコを無期限出場停止処分としたが、実際に襲撃を指示したのは自分たち幹部であり、裏では褒美としてトルコに世界一周旅行のチケットを渡したという。翌月、東郷は2月19日開催の浜松市体育館大会に「約束されたギャラが支払われない」として外国人選手を出場させないボイコットを起こす。結局これで団体は東郷と絶縁、TBSは急遽生放送を中止しなくてはならない不祥事となり、イメージの悪化を懸念した局側の申し入れにより団体名はTBSプロレスから国際プロレスに戻る結果となった。


 ③  欧州レスラーの来日 

 

 日本プロレスが馬場&猪木で盤石の体制を築く中、国際プロレスは日本人の選手層の薄さだけでなく、マツダと東郷の離脱で外国人レスラーを呼ぶ手段も失っていた。そこで社長、吉原功はヨーロッパからの外国人招聘ルートの開拓に新たな活路を求める。それまで日本プロレス界と縁の薄かったヨーロッパのマット界には幾人もの強豪が眠っていた。特に4月に来日した"人間風車"ビル・ロビンソンはその後の日本マット界に大きな影響を与えることになる。実戦派カール・ゴッチも「現役最強はおそらくイギリスにいるビル・ロビンソン」と言及していたことから来日前からファンの注目が集まった。

 

 4月3日の横浜スカイホールにおける日本デビュー戦では、相手の木村政雄(後のラッシャー木村)を各種スープレックスの実験台にし、最後はリバース・フルネルソンの体勢から後方に反り投げる"人間風車"でフィニッシュ。後にダブルアーム・スープレックスと呼ばれるこの必殺技は当時一大ブームを巻き起こした。その後もジョージ・ゴーディエンコ、アルバート・ウォール、ワイルド・アンガスなどヨーロッパで活躍する外国人がこの年の国際に来日し、欧州マットがアメリカに遜色ない、むしろ技術では上回ることが証明された。

 

ビル・ロビンソン(1938年〜2014年)

日本マット初の善玉外国人エース。人間風車ダブルアーム・スープレックスで欧州レスラーの技術力を証明。70年代にはアントニオ猪木と"不朽の名勝負"と呼ばれる試合を行う。漫画"キン肉マン"のロビンマスクのモデル。


 ④  卍固め誕生 

 

 この年の日本プロレスの出来事は、まず4月には第10回ワールドリーグが開催。日本勢はジャイアント馬場、アントニオ猪木、大木金太郎、吉村道明に加え、山本小鉄と星野勘太郎のヤマハ・ブラザーズが初参加。外国勢の強豪はキラー・コワルスキーのみで、フレッド・ブラッシー、ジェス・オルテガと力道山時代のロートルが顔を揃えた形。馬場がリーグ優勝して3連覇を達成し、未だ猪木・大木より格上ということを証明。しかし6月25日、馬場がインターナショナル王座を11年ぶりに来日したベテラン、ボボ・ブラジルに敗北して防衛に失敗する波乱が起きる。2日後のリベンジマッチで奪回するも、インター王座防衛数は21回でストップしてしまった。

 

 12月にはNWA王者ジン・キニスキーと馬場のインター王座をかけた連戦が組まれ、2戦目の6日蔵前大会では馬場が奥の手のコブラツイストを披露し、ギブアップ寸前まで追い込むも、キニスキーはレフェリーのシャツを掴んで突き飛ばす反則負けを選択。NWA王者を追い詰めたジャイアントコブラは紙面にて絶賛されたが、自分の得意技を使われた猪木は一人不満を抱いた。コブラツイストは馬場だけでなく、他のレスラーも好んで使うほど一般化してしまったため、猪木はよりインパクトのある関節技を求め、カール・ゴッチとのマンツーマントレーニングで新技を開発。この技はアントニオ・スペシャル、あるいはオクトパス・ホールドと名付けられたが、翌年日本テレビの中継内で技名の一般公募が行われ、技を掛けている形が卍に似ていたことから卍固めが正式な技名となった。