皆様こんばんわ。

 

畑山公希です。

 

前回のタイトルが長すぎたので、今回の取材後記から少しタイトルを変えました(笑)

 

今回は、第二作目の「歴史が始まった日」の取材スタートの話を書こうと思います。

 

元々この話の発端は、第一作目の「怪物退治の夏」で、表紙の写真は、昭和49年に銚子商業が全国優勝を達成した

 

ことを記念として発行された「栄光への道」という関係者向けの書籍から使わせていたもので、この書籍が、銚子商野球部後援会の著作権だったので、現会長の阿天坊会長へ許可申請の電話をしたところ、今回の作品の取材につながりました。

 

以前銚子市の地元紙「大衆日報」様に取材を受け、その中でもお話しさせていただきましたが、「昭和40年の千葉県勢初の甲子園決勝進出の話を書きたい」とも話していたこともあり、この機会と思い、いろいろお聞きしました。

 

その中でも、気になったのは「阿天坊会長はプロに行きたい気持ちはあったのか。」ということでした。

 

この辺の話は、今回の作品の中に詳しく書いてありますが、会長は「挑戦はしてみたかった」と話されていました。

 

ただ、その後六大学リーグ戦優勝、社会人野球での補強選手で都市対抗へ出場という観点からみても、間違いなく選手として実力者だったことは確かです。

 

いわば、昭和40年の全国準優勝は、千葉県の歴史が始まった日とされており、千葉県と銚子商が全国区となった最初の戦いとも言えました。そして、その相手が、あの名将原貢監督、そう長年球界の名称読売ジャイアンツを率いた、原辰徳監督の父であったことも、今回のストーリー性を深める理由になっています。

 

私がこのストーリーを描こうと思った決定的なことは、あの決勝戦の敗戦には「理由があった」ということです。

 

ここを聞いたとき、作家魂が揺さぶられたという経緯がありましたが、気になった方はぜひ読んでいただきたく思います。

 

会長への取材は、電話で1時間半、対面では3時間にも及びましたが、会長は昨日のことのように、詳しく覚えておられました。




最初の作品のこの表紙の写真は、斉藤一之監督45歳当時の写真です。この間マリンスタジアム隣にたまたま居合わせた私の読者様には、表紙は褒められました(笑)

 

続く

 

 

畑山公希

 

22年7月に、千葉県の高校野球の名門「銚子商業高校野球部」と昭和の名将「斎藤一之監督」にまつわるノンフィクション作品「怪物退治の夏~昭和48年甲子園2回戦~銚子商と斎藤一之」を出版。

 

銚子商業高校野球部ノンフィクション第2弾「歴史が始まった日~昭和40年甲子園決勝~斎藤一之VS原貢」を4月8日に、アメージング出版より出版。

 

現在も、第3弾、千葉県の高校野球にまつわるノンフィクションを執筆中。