2011.3.11. あの日、あなたは何をしていましたか?
私は、東京にいました。
電車が止まり、道路が大渋滞する中を、お台場から東京タワーのふもとまで歩いてホテルに戻りました。
ホテルのロビーには帰宅できない方々が毛布にくるまってあふれていました。
新幹線は不通、高速バスも運休。私は東京に2泊したのち、3月13日の午後からクルマを借りて福島に帰りました。
高速道路が閉鎖されていたので、一般道を走りました。
何回か高速道路が見えました。ともしびの消えた高速道路には、北へ向かって大型救援車両が切れ目なく連なっていました。
これが有事なんだと思いました。
日が3月14日に変わった頃に福島へ着きました。
夜中もやむことなく、ヘリコプターと緊急車両のサイレンの音が響いていました。
この間にも東京電力の原発は次々と爆発。
ラジオから、うろたえる専門家と淡々と応じるアナウンサーのやりとりの声が聴こえてきたのは、3月15日のお昼前でした。
この日の13時、家族を連れて新潟経由で東京へ脱出しました。
この日の14時、私の住んでいた郡山市内に放射性物質が降ってきました。
脱出する最中に、福島へ向かう乗客のいない何十台ものバスの隊列と、何度も何度もすれ違いました。避難用に手配されたバスだったのだと思います。
あの日のことを、私は一時たりとも忘れません。
そして、避難してから1か月、子どもの新学期に合わせて福島に戻ってきました。
当時の校長先生が、自ら洗ったり土を剥がしたりして線量の下がることを確認していたことを話し、
これを進めておけば、もっと子どもたちの環境は変わっていたはずだとおっしゃったことから、除染ボランティアのグループを立ち上げました。
怒髪天の「♪オレがやらなきゃ誰がやる!」の志です。
今、福島では日常を取り戻しつつあります。食品を検査し、放射線量を表示する機器が設置され、子どもたちは線量を記録するガラスバッジを提げ、甲状腺やホールボディカウンタの検査が行われている、そんな中での日常です。
私たちの放射能との取り組みは、まだまだ続いていくはずです。
放射線が健康に及ぼす影響について、専門家の判断は分かれています。
まずは、分かれていることを認めるべきです。
それを認めないことから、住民同士の分断の悲劇が始まっていると思います。
判断の分かれていることを認めることを前提に話を続けますが、現時点では間違いのない選択をすべきです。
食べるものがないのであれば別ですが、危険の可能性がないとは言い切れないものを、子どもに食べさせることはやめるべきです。
すべてのものがすべて検査されているわけではありません。
基準は完全に安全を証明されたものではありません。
他国の基準が緩いのは、汚染された食品の流通する可能性が低いからです。
基準値の食品を食べ続けていいと言う解釈ではありません。
だから、間違いのない選択をすべきです。それで現時点での問題は解決します。
除染も含めて被曝を低減する方策にお金がいくらかかるかわからないとか言って、福島に住む人たちに危険性と不安の負担を強いることを肯定するのは間違っています。
同じ日本国民です。
こんなことになって初めて気づきました。日本国内には米軍基地問題や公害問題などの負担を強いられている国民がいます。私は無関心・無神経過ぎたことを、悔いています。
一方で、たくさんの人たちに支えられて今があります。そのありがたさが本当に身に沁みます。
みなさんにお願いがあります。私たちのことを見つめていてください。福島から避難している人たちのことも、福島に住んでいる人たちのことも。みんな同じ思いなのです。忘れないでいてください。
私たちは、みなさんといっしょにつながっていることが、支えになります。
…以上は、2013年3月に書いた文章を、2014年3月に一部手直ししたものです。
2011年03月11日ビックサイト前
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あの日から10年、
区切りでもなく、
記念日でもない。
あの日からの日々
続いています。
2021年3月11日
▼怒髪天ニッポンラブファイターズ