ごきげんさまです。

 

福岡県北九州市在住、断捨離®トレーナー講習生の笹尾和子です。

 

ご訪問いただき、ありがとうございます😊

 

断捨離に出会う前の私について書いています。

重いです。苦手な方はスルーしてください。

 

今日、6月25日は母が亡くなって21年目の祥月命日です。

 

その頃の私は、福岡市内のアパートで独り暮らしをしていました。西鉄電車の駅から徒歩5分、目の前には本数は少ないけれど、天神直通のバスも出ているような、利便性のいい住居でした。

 

単館上映系の映画が好きな私は、博多や天神にある映画館に毎週のように通っていました。

 

40歳を過ぎた頃から、それまでの可能な限り週末は金曜日の夜に帰省し、日曜日の夕食を済ませてからアパートに戻るような生活から、帰省する頻度を減らして、月に1回か2回、それも1泊でアパートに戻るようになっていました。母からは、毎週のように帰省を促す電話がありました。母から絵手紙をもらったこともあります。

 

就職してから母の日には、欠かさずに赤いカーネーションの鉢植えとプレゼントをしていました。花の季節が終わっても大事にされていたカーネーションの鉢が3つほど庭に並んで、今年のカーネーションはいいから、と言われたこともありはしましたが、その年に限って、母の日には帰省せずにカーネーションもプレゼントもしませんでした。

 

母の日の数日後、母は、道からは1~2m高台になっている空き地を近所の数名でお借りして家庭菜園をしていた場所の階段から落ちて、腕を複雑骨折しました。夕暮れ時のことで、人通りもなく畑の真向かいの方に必死で助けを求めて、救急搬送されるまでのプロセスは割愛しますが、とても痛々しいものでした。

 

母は血液凝固を防ぐ薬を常用していたため、すぐには手術を受けることが出来ず、負傷してから3週間ほど経って、ようやく手術を受けることが出来ました。救急搬送されてから入院生活が続いていた母は、同室の方たちととても仲良くなって、腕を三角巾で固定された姿で、数人で連れ立って病院内を散歩したり、院内の庭で日向ぼっこをしたりして、楽しそうに過ごしていました。

 

母が父のことをぼやいて、「毎日、見舞いには来るんやけど、ベッドの傍の椅子に座って帰りたそうにするけん、毎日じゃなくてんいいよ、って言ったら、本当に毎日は来なくなったんよ。前に父さんが入院した時には、私は電車で1時間かけて毎日通って、半日くらい居たのにね。父さんは車やけ、すぐ来れるのに。」と言ったことがありました。すぐに父にはその言葉を伝えました。それから毎日父が見舞いに行ったのかどうかは、今となっては謎です。その言葉を伝えた時に、父が、「俺だって、毎日洗濯したり、買い物したり自分の飯作ったり、庭やら書くこと(書道や老人会・お寺さん・町内会のお仕事等々)やらいっぱいあるんぞ。見舞いに行くときには、母さんが食べたいち言うけ、りんご剥いてタッパーに入れて、同じ部屋の人にも配れるように爪楊枝用意していったりしよるんぞ。」と訴えていました。

 

手術が終わった週末、土曜日に見舞いに行った私が、「天神で見たい展示会があるから、明日は午前中に来て、それから行こうと思う。」という話をすると、母は、「見たいものは、ゆっくりと見た方がいいから、明日は来なくていいよ。」と言ってくれました。その時に行った展示会は「人体の不思議展」の展示会でした。倫理上の問題から、その展示が国内で一般公開されたのはその時の巡回展が最後でした。展示会場で、人体を輪切りにした展示のところで、一人の男性が「人間はハムじゃない!」と思わずという感じで叫んだ言葉が耳に残っています。母と同じような手術を受けた人体の展示もあって、改めて母のケガの大きさと痛みを想像して辛い気持ちになったことも覚えています。

 

週が明けて、月曜日、職場に父が電話をして来て、「なんかわからんけど、母さんが大変なことになっとる。今、集中治療室に入っとる。」と戸惑った声でいいました。職場に事情を話して時間年休をもらい、病院に向かう途中で、なぜか兄も呼ばなければ、という気持ちになって、大阪に居る兄に、すぐに来るようにと電話をしました。

 

医師からの説明は、「急性重症膵炎を発症していて、5日間は太ももの付け根に設置した針から薬を注入する治療をし、絶飲食が必須。この5日間を乗り越えれば助かる可能性はあるが、その確率は10~15%。その後も膵臓機能の回復が確認できるまでの数か月は口から飲食が出来ないので、ご家族の付き添いが必要だ。」というものでした。

 

母は、「お腹が焼けるように熱い、水が飲みたい。」「お腹をすっきりさせたい。浣腸してもらえんやろか?」と訴えます。医師には、母の言葉を伝えはしましたが、太ももにさしてある針のことを考えると、衛生上難しいだろうな、と思ったこともあって、何度かは頼んだものの、そこまで強く医師には言えませんでした。

 

苦しい息の中で、兄と私に、「あんたたちは仕事があるんやろ。私のことはいいから帰りなさい。」と言う母、口を潤すだけだからね、と注意するのをきかず吸い口からの水を飲みこもうとする母、寝ずの番をした私に代わって兄と父が付き添い、私が病院が用意した宿泊施設に行くと1時間もしないで兄から電話が入り、「母さんがお前がおらんと心配しよる。すぐ戻って来い。」と言われ、戻ると手を握って安心したような表情を見せた母、苦しみの中でも色んな表情を見せる母と過ごした丸二日後、昏睡状態になり安らかに眠った状態になり半日後、父と兄、義姉、姪っ子、私たちの感謝の言葉に応えるようなバイタルサインを示しながら、安らかに息を引き取りました。

 

葬儀場の方に、専業主婦の方で、こんなに参列者が多い葬儀は珍しい、と驚かれるほど多くの方々が通夜葬儀に来てくださいました。中には、母と一緒に入院していた方たちでまだ入院中だった方たちが、外出してお参りに来られた姿もありました。通夜葬儀の間、微笑むような母の顔を皆さんが撫でてくださるので、頻繁にファンデーションを塗ってお化粧直しをするのも私の役目の一つでした。

 

母亡きあと、今にも母の後を追いかねない父を一人にしておくことが出来ず、実家から片道42キロの道を往復して職場に通いました。それは父が「俺はもう大丈夫だから。お前はアパートに帰れ。」と言った10月まで続きました。気を許していた同僚とランチに行ったときに思わず涙を流した以外は、あまり泣けなかったような記憶があります。

 

私は、長いこと、母の日のカーネーションとプレゼントをその年に限ってしなかったことや、帰省の頻度を少なくしていたこと、母の望む「浣腸してほしい」という言葉を、命の訴えと気づいて医師に強く、私が責任を取ります、という勢いで頼み込まなかったことを、後悔して、自分を責め続けていました。

 

断捨離に出会っていなければ、いまだに私は私を責め続けているのかもしれません。

 

 

 

 

長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。

 


これからの断捨離®トレーナー講習生としての歩み、新人アイビーマッピングマスターとしての歩みを見守っていただけると幸いです。

どうぞよろしくお願い申しあげます🙏

 

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