裏書きに次のようにあります。
「奥の細道三百年世界俳句大会特選山形県知事賞 汀石 丹野貞作」
 
「奥の細道」については、『広辞苑第五版』に次のようにあります。
「(書名は宮城野から松島へ行く間の地名による)俳諧紀行松尾芭蕉著。1冊。元禄7年(1694)素竜清書。同15年刊。元禄2年3月27日江戸深川を出発。門人曾良と共に奥州各地を行脚し、北陸の勝を探り、さらに美濃から伊勢路に入ろうとして9月6日大垣に筆を止める。」

 元禄2年深川出発なので、「奥の細道三百年」は、1689年から300年、1986年、昭和61年ということになります。この年か定かではありませんが、「奥の細道三百年世界俳句大会」が開かれたのでしょうね。この大会で、丹野貞作さんは見事県知事賞、最高賞でしょうか、これをいただいたのでしょう。

 丹野貞作さんは、父の実家、河北町溝延の同郷、家もすぐ近くで、しょっちゅう行き来していた方です。すばらしい賞をいただいたということでお祝いをしたのでしょう。早速、この短冊と、後日、立派な色紙もいただいたのでした。

 芭蕉と曾良は、南部道から岩手の里、なるごの湯から、尿前の関を越えて出羽国に入ります。出羽国に入るには「大山を隔て、道さだかならざれば、道しるべの人を頼みて越べき」と言われ、「究竟の若者、脇差をよこたへ、樫の杖を携た」案内人を雇います。 

 そんな苦労をして尾花沢に着き鈴木清風宅に世話になり、ゆっくりと滞在します。その様子を次のように書いています。「尾花沢にて、清風と云ものを尋ぬ。かれは、富るものなれども、心ざし、さすがにいやしからず。都にも折々かよひて、旅の情をもしりたれば、日比とどめて、長途のいたはり、さまざまともてなし侍る。」
 そのもてなしの句会での一句が次の句です。

「まゆはきを俤にして紅粉の花」