ドイツでの留学を終えて帰路、清蔵は北米の農業事情を調査するためアメリカに寄りました。上陸してすぐに、オルガからの手紙を受け取るために総領事館に行ったところ、時の総領事、内田定槌氏は、
「おまえは丁度善いところに来た、実はロス・アンジェリスの銅鉱山所有者リチャードソン氏が大面積の土地を西部メキシコに購入して日本人を入れて見たいと申し出て来たけれども見に行く人がなくて困って居ったところだ。一つ行って呉れんか。」
といいました。


そのころ、内田総領事の肝いりで始まったテキサス日本人水田事業はその成功が伝えられて、若い農科の学生が「駒場出てから15年、今じゃテキサス大地主、黄金花咲く5万町歩」というような歌がはやっていました。清蔵もその水田事業を見てみたいと、総領事に行ってみることを承諾しました。


まず、中部北部の情勢を汽車の窓からでも見ようと、ナイアガラの瀧を見物しました。イサカのコーネル大学農科の農業経営学教室で、日本農業と北米農業の違いを学生に講義し、ワシントン経由のカリフォルニア行きの汽車に乗るためにニューヨークに帰ったところ、ニューヨークの郵便局の前の人だかりは驚くほどで、押すな押すなの大騒ぎでした。


訳を聞いてみると、サンフランシスコが大地震で、家族の安否を問い合わせる電報の競争でした。清蔵はその光景を眺めながら、気の毒というよりさきに、「サンフランシスコ市民は罪のない日本人の幼い子どもまで公立学校から追い出すという無慈悲なことをするから天罰が下ったのだ」と思ったのでした。


サンフランシスコに向かって汽車に乗り、ニューオリンズに着きました。蠅の多いところで、停車場の待合室に黒人と白人の区別のあることに腹を立てました。それにも増して、この地をはじめに植民したフランスが失敗に終わったという事実は、国内人口が過剰で、何としても植民地が必要だという国でなければ成功しないと言うことを物語るものとして、清蔵の心に深く残ることになりました。


メキシコ国西北にあるヤーキ河畔の平野は、リチャードソン氏が言うとおり本当に肥沃な土地でした。灌漑の設備さえ作れば十分な収穫が得られるものと思いました。しかし、清蔵は農産物を売る市場はほとんどないことに気づきました。もしロッキー山脈を越してメキシコ湾の港に送るとすれば運賃倒れとなり、北米には関税の関係では入れない、これは計画すべきでないと考えたのでした。


このことは、後に南米アルゼンチンで農業を始める清蔵にはとてもよい経験となったのでした。