清蔵のドイツ留学が決まると、突然母校出身の大先輩が訪ねてきて縁談を持ってきました。東京でも有名な家の娘で清蔵に「やってもよい」という話でした。将来は大学教授や上級官僚が約束されている文部省の外国留学に行く者は、結婚相手として狙われていたのです。


清蔵は当時35円という俸給をもらっていましたが、その大半を父に送り、残りの半分以下で学生と同じ生活をしていました。結婚して一家をかまえることなど考えたこともなく、婚礼の晴れ着を買うことも出来なかったのです。むげにも断ることも出来ず、恩師の宮部先生に相談したところ、「それは君、断るにしかず」とのお言葉を得て、断ったのでした。


清蔵は実は、縁談話が全くなかったわけではありませんでした。清蔵がまだ13,4才のころ、父の実家に行ったときのことです。実家上村家は、父豫(やすし)の弟が後を継いでいました。清蔵がこたつに当たっていたとき、叔父は私をつかまえて、
「うちのおまさをお前にやることに決めたがどうだ?」
と出しぬけに言いました。おまささんは叔父の娘で清蔵より1つ年下でしょっちゅう遊んでいた仲でした。その時はおどろきましたが、すぐ忘れてしまいました。


それでも、清蔵が札幌行きの許可を父豫から得た時に、さすがにそのことが気になって、
「自分は30までは一本立ちできないから、おまささんとの結婚は出来ません。」
といいました。父豫は弟と約束していたことなどをくどくど言いましたが、清蔵には負けたようでした。清蔵が札幌に行ってほどなく、おまささんは近所の若者と仲良くなり結婚し、清蔵も安心したのでした。
 
「当時の日本では、結婚の話が起こるまではお互いの存在さえ全く知らない青年男女を、『お前等は割れ鍋にとじ蓋となるには好個の存在であるから、一つ見合って身を固めてはどうじゃ』という論法の下に、唯の二、三回の見合いで、お嫁さんの方は終始恥ずかしがり、お婿さんの方はくすぐったいような顔つきで、お互いに日光の輝く一面のみ見せ合って、厳格な家族制度という破りがたい伝統の鉄鋼の柩の中に嵌め込ましむるのであった。」
(伊藤清蔵著『南米に農牧三十年』)


清蔵は父豫の結婚、また祖父鳳山の結婚の話をよく聞いていました。母、祖母を見ている清蔵は、「お互いの存在さえ全く知らない青年男女」の結婚もそれなりに幸せなのではないかとも思うのでした。一方、清蔵は「自分は父母、祖父母のような結婚さえもできないのではないか、いつになったら結婚できるのだろう」と思いながらも、結婚とは何かを深く考えたのでした。