出会ったその日、2人は夜遅くまで語り合いました。といっても、話していたのはほとんど清蔵でした。武郎はその日の日記に清蔵が話したいくつかについて書いています。


「此言往々ニシテ君子大人ノ風アリ曰ク『我ハ既に断乎トシテ外面ヨリノ困難ニハ其困難ガ如何ニ鋭キモ甘シテ之レヲ受ケテ忍耐スル覚悟ヲ充分ナシヌ。昨年ノ冬一生徒ノ爲メニ頭ヲ殴打セラレタリ。然レドモ之レ唯尋常コトノミ。相闘テ決シテ彼等如キニ負クルモノニアラズト難モ我忍耐シヌ。而シテ全ク事無キヲ得タリ』ト。」(有島武郎『観想録』)


清蔵の自慢話のようであるけれども、真面目な清蔵の話しぶりと、これまた真面目な聞き手の間では、素直にしみ入るように心に食い入ったようです。武郎は「人汝ノ左 ノ頻ヲ打タバ汝其人ニ又右ノ頼ヲ向ケヨ」の聖書の言葉を思い出したと書いています。清蔵がそのように困難に耐えることが出来るようになったのは、子どもの頃から貧しさとの闘いがあったこと、また北海道に来てからの薬売りの旅や測量人夫としての旅のおかげだという話をしました。


清蔵はまた、弟宅治の話をしました。宅治は次男でしたから、谷地小学校を卒業しても中学校には入れてもらえませんでした。もちろんそんな金はなかったのです。叔母の嫁いだ白岩村の農家に見習いとして居候となたのでした。清蔵はそれがかわいそうでならず、清蔵は一大決心をします。宅治を北海道に呼び寄せて1人の学費で2人が勉強できるようにしたのでした。


武郎はすっかり感心して、「宜ナルカナ其言側々トシテ人ヲ動力スアルヤ。君又日ク『世困難ニ遇フノ人往々其精神萎縮シ人ノ映鮎ヲ見ルノ眼ハ鳧ノ如クニシテ終ニ人ノ長所ヲ入ルルノ量ナキニ至ルヲ極メテ普通ナリトナス。是レ果シテ何二依リテ然ル。困難ヲnobleニreceiveセザリシニヨルノミ』ト。」と書いています。


「『困難ヲnobleニreceive』する」とは清蔵の造語なのか、清蔵が新渡戸先生から学んだ言葉なのか、清蔵らしい言葉です。武郎も「殆ント千歳ノ金言ニ非ズヤ。」と書いています。


この日以来、2人はたびたび散歩に出たりして語り合います。6月10日は「天気甚ダ晴朗ナリキ]でした。昼食後、清蔵に誘われて2人は散歩に行きました。「丸山二至リ園地ニ至リテ獨木舟ニ乗ル。」とあります。舟に乗ったり景色を眺めたり、山道は「相共二手ヲ携へテ登」ったり、清蔵は独逸の詩を朗読したりします。「Shily作ル所ノHofnungノ詩ナリ。詠シ終リテ我二其意傳フル甚ダ切。鳴呼君一年級ノ学生トシテ詩ヲ暗記スルニ此ノ如キニ至ルカハ勉強ノ驚キニヨラズンバ焉ゾ此二至ラン。」(有島武郎『観想録』)