先の和泉庫四郎(いずみくらしろう)氏の論文では、同じ学生の立場で清蔵のことを日記に書いていた有島武郎が紹介されています。


「札幌農学校在学時代の伊藤清蔵の面影を伝えるものに、有島武郎の日記『観想録』(筑摩書房版『全集』第10巻収録)がある。有島武郎は1896年に学習院中等科を卒業し、その年の秋、札幌農学校予科5年級に入学した。同じ年の秋に伊藤清蔵は上述のごとく予科を終了して本科に入っていたから、有島は伊藤の一年後輩だったことになる。」(『伊藤清蔵における農政学と農業経営研究』)


有島武郎は実業家有島武の長男として生まれ、父の後を継ぐべく期待されて大きくなりました。学習院、札幌農学校と進み、アメリカ留学をしますが、志賀直哉や武者小路実篤らと出会い、しだいに文学の道に進むようになります。妻の死を契機に本格的に文学に打ち込み、『カインの末裔』『生れ出づる悩み』『惜しみなく愛は奪う』などたくさんの作品を残し、最後は人妻と心中をします。46歳でした。


その武郎が、札幌にやってきたのです。札幌の地で、武郎は清蔵の親友となりました。その思いもかけない出会いの場面が、有島武郎の日記『観想録』(筑摩書房版『全集』第10巻収録)に次のように書いています。

「我レ農学校ニ入学シテヨリ伊藤氏ニ遇フ毎ニ何トハナキ恭謙ノ貴容二打タレ唯慕ハシキ心地シテ往来ニ相遇フモ同氏ニノミハ我モ禮ヲ為シニキ。」(『観想録』)入学以来、武郎にとって清蔵は気になる先輩でした。農学校の中ですれ違うときでさえ、「恭謙」の思いがして「慕ハシキ心地」がし、自然に会釈をしていたのです。


武郎が清蔵と語り合うようになったのは不思議な縁からでした。あるとき、武郎は友人、松平恆雄から手紙をもらいます。その手紙には、札幌農学校には伊藤清蔵という人がいる、この男はおもしろい男だからぜひ会って話をしてみたらどうかということが書いてありました。武郎のその日の日記です。


「蓋シ氏(松平)自ラ之レ(清蔵)ニ交リタルニアアズシテ伊藤君ノ知己吉田氏卜云ヘル人同シク第一高等学校ニテ松平氏卜相親シキヲ以テナリ。」(『観想録』)武郎に、伊藤清蔵はおもしろい男だからぜひ会ってみてはどうかと勧めた松平恆雄は、実は伊藤清蔵に会ったことはないと書いています。恆雄の第一高等学校の友達、吉田という人が清蔵のことをよく知っていて、彼に話を聞いたからだと書いています。


一体、吉田という人は誰なのでしょうか?