清蔵は札幌農学校の遊戯会の思い出を書いています。札幌農学校の遊戯会について、「札幌農学校遊戯会の成立過程」(鈴木敏夫 北海道大學教育學部紀要 1998-03)があります。この遊戯会が北海道の学校の運動会につながったのではないかとあります。


遊戯会がどのように行われたかについて、明治11年に学生として参加していた新渡戸稲造が養父時敏,養母せきに出した手紙が資料としてあります。


「第一回遊戯会(明治 11 年 7月 23日付書簡) 六月一日当校教師之談並ニ助言ニ関リ生徒一同合シ,各々金弐拾銭ヲ出シ亦タ教師等各五円校長三円其の他役員各々金壱円を合せ生徒中より役員を選ビ賞品ヲ求めて本庁之門前にて力戯を致シ候但シ見物人四五百人斗リ戯之名左之如シ 第一婦久呂(ヲ着テ早足) 第二玉(投ゲ) 第三石(投ゲ) 第四飛ブ 第五 第六 第七 右之外数三ツ四ツ斗リ有之候 右之諸芸ニテ賞品ヲ受け候人員は藤田九三郎,永井於兎彦,鶴崎久米一,宮部金吾,伊藤英太郎,伊藤鑑太郎,山田義容,渡瀬寅二郎,小野兼基,伊藤一隆,太田稲造 第一等賞は二円以上之品にて得シ者ハ藤田,永井並ニ太田に御座候」


文中「太田稲造」とは新渡戸稲造です。9歳で東京の叔父太田時敏、せきの養子となったのですが、27歳の時、兄七郎が死去のため、新渡戸家にもどります。札幌時代は太田姓だったのです。それにしても、一等賞などをもらっている稲造は文武両道だったようです。


清蔵は勝負事が嫌いだったのでこの遊戯会にはこれまで一度も参加しませんでした。あるときの新渡戸先生の倫理の講義の時でした。人間の才能は訓練によって完成するものだというという話の実例としてスポーツをあげました。


「練習の如何によっては常人といえども相当のところまで行き得るということを説明された時、熱烈に先生を崇拝する私が一つやってみようという出来心を起こしたことは当然で、これによってもいかにその当時新渡戸先生に傾倒しておったかがわかると思う。」(清蔵自伝『南米に農牧三十年』)


清蔵は雪解けとともに走り出しました。1ヶ月半、毎日欠かさず走りました。遊戯会には10種目以上の競技がありましたが、最後の1里競争に満を持して出たのです。合図で飛び出して走り続け、10数人を追い抜きました。最後の一人を追い越そうと必死のとき、親友が一緒に走ってくれました。


「それにもまして私の喜んだことはいよいよ決勝点に近づいたときである。新渡戸先生が走ってきて私に『二等!』と叫ばれたことであった。
生来勝負事の嫌いである私は、ただ先生の教理を実証せんがためにこそ一ケ月半の練習をしたのであった。」(同上)