清蔵は意を決して北海道に向かいます。この時、父豫(やすし)にどう相談し、豫が何を言い、どんな話が家でなされたかなどは自伝に全く書かれていません。あれほど慎重な豫が、これからの清蔵の将来や北海道までの旅費を心配しないはずがありません。


明治24年春、清蔵は同級生Yとともに、残雪を踏んで谷地から関山峠を越え、作並温泉に一泊し、仙台に出ました。仙台から塩竃に出て、そこから小さい蒸気船で石巻に、石巻から800トンの汽船で函館まで行きました。


この時の自伝に「北海道行きを決行した」という記述があります。それは、清蔵にとってはまさに「決行」だったのです。父豫も反対し、弟宅治も姉たちもなぜ北海道なのだとおどろいたことでしょう。でも清蔵は北海道に行きたかったのです。栂野(つがの)校長の北進論に共鳴してあこがれた北海道であり、初めて自分が選ぶ進路であり、それより何より、原始的飢餓により自分に課せられた長男としてのつとめのためでした。


清蔵ほど貧乏ではないY君と残雪の関山峠を歩きながら、清蔵は考えていました。この北海道行きは何としても成功させなければならない、自立の場としてそこで生きなければならない、それができるだろうかと考えていました。それはこの決断へのまよいによるものでもありました。


そんな清蔵でありましたが、仙台駅で初めて鉄路を見たときから、そんな思いは全く吹き飛んでいました。「なんだこれは、線路がこんなに狭くて汽車は走れるのか!」山形にはまだ鉄道はなかったのです。清蔵は、汽車の車輪は車体の外側についているものだと思い込んでいたのです。仙台から塩竃までの初めての鉄路の旅、清蔵はもう声も出ませんでした。窓枠から顔を出し、顔にすすがつくのもいとわず、その早さにおどろいていました。


おどろいたのは汽車だけではありません。塩竃から石巻までは小さい蒸気船に乗りました。この小蒸気船におどろいたのです。
「その時私は、全く、たまげてしまった。最上川を上下する荷船と比べてあまりにも巨大である。船体が海上高く聳え梯子段を上って初めて乗船し得るなどとは夢にも見たことないものだったからである。」(清蔵自伝『南米に農牧三十年』)


石巻からは1200トンの新潟丸で函館に向かいました。その船の大きいことはもちろんおどろきましたが、船長が英国人であったことにおどろきます。「私は生まれて始めて異人さんとというものにぶつかったので、穴のあくほどその顔を眺めたことを記憶している。」(同上)山形の文明開化は本当に遅かったのです。おどろきはまだまだ続きます。