清蔵の自伝『南米に農牧三十年』(宮越太陽堂)には「北進論に共鳴す」という節があります。山形中学時代の思い出を書いているところです。合唱の授業中、「ひどく全生徒の音調を害する」と「群外に摘まみ出された」こと、歴史と地理が好きだったこと、「西遊記」が好きで自分が三蔵法師になり「西遊記」の遊びをしたこと、同級生の中で、南進論と北進論をたたかわせたことなどが書かれています。


明治22年、清蔵が中学校生徒となった年、日本は日清戦争に向かいつつありました。明治維新後から対外政策に「北進論」と「南進論」があり、生徒の間でも得意げに話す者がありました。ある日同級生の一人が「累卵の如き危き東洋」と言う問題を投げかけ、終わりに「だからわれわれは南進しなければならない」と言ったそうです。清蔵は「他に喰われないためには自分が先に他を喰ってしまえという主張である。これには私はすっかり感心してしまった」と書いています。


ところが、山形中学の校長栂野四男吉(つがのよもきち)は、札幌農学校第三期卒業であり、北海道の雄大な自然や開拓の必要性、強大な露国に対する北の要塞であるという話をして全校生をとりこにし、清蔵をあっさり北進論者に変えてしまいました。そのことを清蔵は次のように書いています。


「北海道は、当時人口甚だ少く、発達の余地は十分あり、私の心の奥底には一生懸命で開拓をしたら、あるいは広大な土地の所有者となるだろうという欲深い、例の『原始的ひもじさ』より来た進歩を欲求する感情もあったろう。原始的食欲を以て基礎づけられた私の北進論は、西遊記的夢想の南進論よりも、実現の土台を固め易いため、真面目に、札幌転学を計画するようになった。」 


清蔵は親友の吉田熊次に相談したところ、吉田もそう考えてすでに札幌農学校の校則を取り寄せているとのことでした。清蔵は、吉田の素早さにおどろきながら、早速校則を借りて読んで調べてみました。調べれば調べるほど、ますます札幌がおもしろくなり、山形中学の仲間を誘って、転学を実行することにしました。


実際に北海道に向かったのは明治24年の春、清蔵とY君の2人でした。なぜか吉田熊次の名前はありません。吉田熊次は札幌には行かず、「山形中学四年在学中、第一高等中学校(一高の前身)を受験して合格、明治二十六年上京」(今野竹蔵「吉田熊次の生涯と業績」宮内文化史資料第十四集)したのでした。その後明治30年、東京帝国大学文学部哲学科に入学しました。


清蔵と吉田熊次、進む道は異なりましたが、これからも関わりながら、刺激し合いながら学び続けるのです。