清蔵の中学時代の親友に吉田熊次がいました。「中学の同級中理屈をこねることの上手なのは吉田熊次であった。私より二つ年上でませて居り学問もなかなか出来たから、私は彼を尊敬していた。」


吉田熊次は、現山形県南陽市中川に生まれました。山形県南陽市のホームページの「郷土の偉人」には「刻苦して博士になった吉田熊次」と題して次のように書かれています。


「わが国教育学の育ての親とも言われた文学博士吉田熊次は、明治7年中川村日影に生まれました。川樋小学校を卒業すると、宮内小学校高等科に入学し、下宿生活を始めました。下宿では冬でも足袋をはかず、理科の教科書は買わないで人から借りて全部写したり、いつも勉強しているため、いつ寝ていつ起きたのか下宿の人もわからなかったそうです。
高等科を卒業すると山形中学校に進み、その後、東京の第一高等中学校(一高)に入学しましたが、東京では書生として住みこみ、雑巾がけ、茶碗洗いなど厳しいしつけを受けました。次いで明治30年東京大学に進んで哲学・教育学を勉強、卒業の時は成績優により『恩賜の銀時計』を受賞し、大学院に進みました。(後略)」

吉田熊次は倫理学、教育学を研究し、明治37年からドイツとフランスに留学、その後文学博士、東京帝国大学教授となり、わが国教育学の第一人者として教育界の指導にあたりました。

伊藤清蔵は明治22年に札幌農学校の予科に入学し明治33年に本科を首席で卒業、そのまま同校の助教授となりました。清蔵がドイツに留学したのは明治36年から39年までですから、ちょうど同じ頃、二人は留学していました。二人はドイツで会うことはあったのでしょうか。


山形中学校時代の勉強のひとこまを、清蔵は自伝にこう書いています。
「あるとき、吉田が主唱となり、同気相求めて、五人組をつくり、中学時代一年ばかり寄宿舎を去って素人下宿の二階で勉強したことがある。そして毎日議論したことを覚えている。何を議論したかは、すっかり忘れたが、ただ裏隣りになっている墓地に行って、石碑の頭を叩きながら、大いにしゃべったことだけが記憶に残っている。」


父豫(やすし)、祖父鳳山(ほうざん)の時代は、地方にあって読むことが出来るすべての書物により学び、江戸に出て私塾で師に学び、塾生と議論を闘わせて学びました。その話を聞いて育った清蔵、そして学びたい一心の吉田熊次、二人ともに、学ぶことに飢えていたのでした。学ぶことへの飢餓が、二人の友情を深めました。