伊藤清蔵は母のお腹の中で180里の旅をしました。父豫(やすし)は、ふるさとで妻子を養うために、妻子を連れて三河の田原から山形の谷地に帰郷の旅をしました。


でも、豫は、文久3年春、16歳で大きな夢をもって江戸に上る旅をしました。その時のことを豫は次のように書いています。「去る文久三年の春なりし 十六歳の少年にて初めて江戸表に参り 元治の春まで四ッ谷の學半樓塾に學僕同様にて罷在り(後略)」文久3年と言えば、松平容保(会津藩主)が京都町奉行に任じられ、例の『八重の桜』の世界になります。今年で言えば、長州が米国軍艦と戦火を交えるという『花燃ゆ』の世界、そういう頃に、豫は16歳、勉強したいの一心で、江戸に上ったのです。四ッ谷の學半楼塾は当時の伊藤鳳山(いとうほうざん)の塾でした。


その伊藤鳳山もまた江戸に上りました。阿部正巳著『鳳山伊藤馨』には「鳳山の江戸に上りたる年齢に二説あり、三州田原にては十五歳文政五年といひ、酒田にては十七歳文政五年と傅ふ」とあります。鳳山は酒田に於いて一通りの勉強を終えており、江戸に出て有名な塾で勉強したいと門を叩きますが、粗末な身なりからすべて断られてしまいます。そのくだりを『鳳山伊藤馨』では次のように書いています。

「江戸に上り旅宿に投じ、諸鴻儒の門を叩きて師事する處あらんとしたるも、垢顔弊衣を見て請ひを容るるものなし、偶々両国橋頭にて旧友延澤某に遭ひ、其斡旋によりて朝川善庵の塾に入門することを得たり。」


鳳山は医者の家に生まれました。鳳山の父維恭(いきょう)は、現酒田市松山の御用肴屋の次男として生まれました。肴屋の次男でしたが、学問がめっぽう好きで、店の手伝いの傍ら、暇さえあれば本を読んでいました。ある夏の日、酒田で魚を仕入れ松山の店に運ぶ途中、木の下で休んでいるときに本を読み出し、気づいたときには魚がみな腐敗していたという話が残されているほどでした。


維恭もまた、勉強仲間の進藤周貞(しんどうしゅうてい)とともに江戸に上り、医者の大家桃井桃庵(ももいとうあん)の門弟になります。必死で勉強して二人とも立派な医者となり、維恭は酒田で、周貞は鶴岡でそれぞれ医者となり活躍しました。


この時代、志ある若者は江戸に上りました。後に鳳山とも関わりを持つ同じ庄内の清河八郎もまた、若くして江戸に上り学問と剣術に励み幕末に大活躍をします。この学ぶことへの憧れと執念こそ、伊藤清蔵が父豫から、そして祖父鳳山から受け継いだものでした。そして清蔵はといえば、ドイツやアルゼンチンと、世界中に旅をしたのです。