谷地に帰ってきたときのことを清蔵は『南米に牧畜三十年』に次のように書いています。


「豫(やすし)は明治八年の初めには、養母初子、妻順子、鳳山の遺子晋吉郎及び二人の娘をつれて、再び旧縁をたどり、最上川の鮭のように、生れ故郷谷地に帰り来たのである。(中略)私はこのようにして、まだ母の胎内にある時三河国田原より羽前国谷地まで百八十余里を草鞋がけで踏破した母のお腹の中でゆすぶられ、三十余日にわたる旅の苦労をなめたから、成人の後持ち前の放浪性を現す度毎に、母は『お前は生まれる前から旅をしたから、旅好きなのも無理はない』と半ばあきらめるような調子で言って聞かされたことが度々であった。」


三河国田原は現在の愛知県田原市です。「自動車ルート検索ナビタイム」で調べてみました。高速道路や国道などを通って、距離は704.4㎞、8時間47分の旅です。明治8年(1875年)の豫たちの旅は、「三十余日にわたる旅」でした。2人の女性と3人の子どもを連れての旅であり、その苦労は相当なものだったと思われます。この時代の旅というものはどのようなものだったのでしょうか。


時代はそれより58年遡る文化14年、山形の鶴岡から伊勢参りに行く女性の旅日記があります(『“きよのさん”と歩く江戸六百里』金森敦子著、バジリコ)。「きよのさん」とは三井清野さん、鶴岡の豪商三井家のお上さんです。「清川へとまり それより舟じのけしきいふばかりなし。」と始まる清野さんの旅は、なんと108日間、600里でした。


3月23日鶴岡を出て、清川から舟に乗り、本合海、舟形、尾花沢、山形、、上山、桑折、福島、白河、大田原を通って4月4日、日光に到着。旅の目的の一つ日光見物をします。
宇都宮を経て4月7日、江戸千住につきました。江戸には13泊し、歌舞伎や寺社見物、藩邸への挨拶、吉原の見物など、江戸見物を満喫します。


こんな調子で江戸から東海道を通って伊勢に、伊勢参りの後奈良、大阪、京都と見物、買い物をし、琵琶湖を回って福井、金沢を経て、新潟を通って鶴岡に戻りました。清野さんの108日間、600里(2352㎞)を超える旅は、帰路を北陸道にし、船旅も交え、見物、買い物にもそうとうの日数を使った楽しい旅でした。こういう旅もありました。


自分の足で歩くしかなかったこの時代の旅では、一日どのくらい歩いたのでしょうか。『“きよのさん”と歩く江戸六百里』では、「武士の旅は12里前後」「多くの庶民は9里前後」「女性でも7里前後」は歩いていたとあります。母のお腹の中で旅をした清蔵の場合は、2人の女性(老母と妊婦)と3人の子ども(2人は女性)連れでしたので、「180余里」を「30余日」、一日6里の旅だったのです。