昔から、いや、今は昔よりもっと、痛ましい事件などのニュースに目を向けられなくなった。

 

今回の震災も、SNSに流れてくるのが辛く、ワードの制限をして直視しないようにしていた。

今行われている戦争も、心がどうしても苦しくなるから、見ないふり聞かないふりをしている。

 

鬱病になってからは、自分自身が避雷針になったように、全ての悲しみを自分が吸収しているような感じがしていた。

 

前回、共感性羞恥についてのブログを書いたが、それらの感情と、悲しみに共鳴してしまう気質は関係があるように思う。

 

私は、人間失格を読んで「自分のことがかかれているようだ」と思う日本人が多かったように、

西加奈子の「i」を読んだとき、衝撃を受けた。

 

主人公のアイは、恵まれた養子で、小さなころから両親に、世界で起こっている不幸なことについての英才教育を受けていた。

アイは「自分は恵まれていて幸せだわ」とは思えない性格だった。

どころか、「なぜ私がこの両親に選ばれたのだろう、なぜ戦争で亡くなる子供は私じゃないんだろう」

そう思ってしまう、繊細で聡明な女の子だった。

 

私はこの本を二回ほど読んだが、私がアイのように「幸せになっちゃいけない」と思ってしまうような性格を、変えるようなエンディングではなかった。(私の拙い読解力のおかげで)

 

ただ、フィクションでも、この世界にアイがいることは、少なからず私の救いになった。

 

私が思うに、悲しさに深く共感してしまうのは、自分の中の「かわいそう」と共鳴するからだと思っている。

 

アイのような人は、自分をとても「かわいそう」とは思えない。そう思うことは、世界にとって失礼だと思っている。

だって、こんなに恵まれているのだから。

 

だから、自分の中以外で起こっている「かわいそう」な出来事に、「自分のことをかわいそうと思えないかわいそうな自分」をリンクさせてしまう。

 

分かりやすく「かわいそう」と書いたが、「かわいそう」=「慈悲」だ。

 

私たちはもっと自分に慈悲を向けていいい。

どれだけ恵まれていても、自分を「かわいそう」だと思っていい。

抱えている辛さを、等身大で感じていい。

 

と、私は思う。

 

極彩色の悲しみにまみれてしまう夜も朝も昼も、大丈夫。

この世界に「アイ」は存在するから。