好日庵のブログ

好日庵のブログ

坐禅を心の拠り所にしています。
静かに坐っていると、だんだん世界に融けこんで一つになります。
そういう日々をすごしながら、感動したことなどを綴ります。
仏教全般からキリスト教まで、関心の幅は広いのです。

彼岸花


今年は残暑が厳しく、彼岸花の咲きが遅れたもよう。

ベランダの朝顔は九月下旬になって、彼岸が過ぎてから、やっと咲き始めた。

まだか、まだか!とドギマギしたよ。

金沢や川越の彼岸花のたよりは聞いていただけに。


この頃、原田雪渓老師の提唱を聞いている。

大きな気づきもある。こういう偉い人があるんだな!

体験してることを無理矢理言葉にしてるから、学者が知識を得ようとして聞いてもあまり納得できないものだ。論理的な話、概念、情報を提供しているわけじゃない。一緒になって体験してみるという話。

苦しみの根本原因、識別作用。こいつが働く前は、此岸も彼岸もない。此岸は彼岸で彼岸は此岸。三界を遊戯してればいい。

鳥が鳴けば、その声が間違いなく聞こえる。

自己がもともとないから。

それは鏡のよう。

もともと。誰でも。


「今の自分の事実に素直に従っていく、それが修行」

「善悪にかかわらす、今の自分の状態に納得しながら生活する」

こういうふうに堂々と言える禅僧は、他に誰があるだろう。噛めば噛むほど味がある。

万巻の書を読破しても仕方ない。この「納得」がなければ。今、ここの納得。

「納得」というのは、自己がまったくないという実感のことなのである。諸法無我という言葉を知識として覚えているのとはまったく違うわけだ。
















お彼岸


自未得度先渡他。気づいたら、みんな渡っちゃってたんだね!という驚きの一声。
此岸も彼岸もない。そのことに気づいた。もともとのようす。
此岸と彼岸がまったくないというわけじゃない。気づく前も気づいた後も何も変わらない。そのままでありながら、此岸と彼岸の意味がなくなった、効力がなくなった。見破られた。

彼岸とは、サンスクリットのpāram(パーラム)の意訳であり、仏教用語としては、「波羅蜜」(Pāramitā パーラミター)の意訳「至彼岸」に由来する。
Pāramitāをpāram(彼岸に)+ita(到った)、つまり、「彼岸」という場所に至ることと解釈している。悟りに至るために越えるべき渇愛や煩悩を川(暴流)に例え、その向こう岸に涅槃があるとする。(Wikipedia)

今年は
2025年9月20日(土) – 2025年9月26日(金)

彼岸とは、日本の雑節の一つで、春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた各7日間である。この期間に行う仏事を彼岸会と呼ぶ。

友人がたよりを送ってきた。
明日は花を買ったり
お彼岸準備するよ

我が家のそばの彼岸花。まだつぼみ。一日二日で茎が急に伸びて花が咲くから、明後日には何本も花を咲かすかもしれない。





シクラメン11月2日


7年前に農協でもらったシクラメン鉢

世話してないけど、毎年花を咲かせた。

10月、まったく発芽の気配なし。

「あ〜、とうとう死んでしまったかな?」


今年の夏は暑く、秋になっても夏日が続く。キンモクセイの咲き方がおかしい。咲いていいのか戸惑っているよう。

去年は10月12日にギンナンを拾ってる。去年も暑い夏だったけど。今年はなかなか見当たらなくて、先日、落ちているのに気づいた。

曼珠沙華も遅れて咲いた。勢いがない。


11月に入り、シクラメンの小さな葉が出てるのに気づいた。

遅いじゃないか!

死んでなかった!

こんなにもたくさん!


このシクラメンも、何にも知らないで、自然が働きかけて、何にも知らないまま、芽を出し花を咲かせる。なんだかむしょうにありがたい。

シクラメンに限らず、我も他人もみな全て、知らないままに自然の働きを受けている。

「花をさかせよう」

などと思おうと思わないとに関わらず、自然が理に従って花を咲かせる。

ありがたいことではないか。

もはや、悩むのはバカバカしい。


2年前の写真を見たら、ずいぶん大きな葉を広げてた。

季節感が狂ってるから、シクラメンのせいだけではないだろう。

小さくても、今年も葉を出してくれてありがとう!







キンモクセイ香る


10月1日、夜にキンモクセイの微かな香りを嗅ぐ。今日朝、キンモクセイのつぼみ確認。まだオレンジ色にはならないで緑色だ。

暑い残暑がようやく落ち着いて、一日に香りを漂わすとは、律儀だな。

暑さのためか、曼珠沙華の開花が遅れてる。今やっと赤い花を咲かせている。


花無心招蝶 蝶無心尋花

はなはむしんにしてちょうをまねき

ちょうはむしんにしてはなをたずぬ


花は「咲いてやろう!」と思って咲くのではない。花は、咲くのを知らないで咲くのだ。しかも、思い計らうことがないのに、完璧なのだ。ここに仏教の救いがある。宗教はこれ!念仏だろうがキリスト教だろうが。


「知らない」ということに安らいでいる。安らいだままでいる。それが安楽の法門。


知らないでキンモクセイを嗅ぐ。

たちまち、当処即ち蓮華国。