彼岸花
東京は連日33℃を超える残暑が続いています。
狭山市の市街地を歩きましたら、道路脇に彼岸花が咲いていました。
彼岸花といえば、飯能にある巾着田(日高市)が有名で、狭山市のすぐ先にあります。あそこは、それはもう見事な赤く染まった景色を見ることができますが、人出も多い。わざわざ行く気にはならない。
道端でぱったりと出会ったこの彼岸花は、ああ!彼岸花の季節か!と新鮮な感動を与えてくれました。
自分の思いとは別に、季節はあるがままに移ろうのですね。思いの方が、変化する世界に気づかされた時、心が揺さぶられて詩を生み出したりするのでしょう。ここに「生きるコツ」があると思えます。
7月8月と加齢が原因の簡単な手術が重なって、病院通いが忙しかった。次々と頭を悩ます出来事が起こってくるので、休まる暇はない。でも、それがかえって自分の坐禅を深めているなと感じてもいる。世界に心を育てられているなという気づきがある。
先日は、旧知の友に数年ぶりに会うことができたわけだし、恵みは恵みとしてしっかり受け取って感謝したいと思う。
雨の中の写生大会
娘が学校の写生大会で描いた絵がすばらしくて、父は口をあんぐり。
一日で外での写生だという。雨降ってる山の中で描いてきたと言った。
娘が送ってきた画像を見ると、右脇に米倉賞と書かれている。評が書かれているが読み取れない。
母親は、実物を見てきて
「薄っす」
と言ったらしい。
「薄いんじゃなくて雨降ってて霧かかってたからその雰囲気出したかったの!っていっても知らんぷりよ」
と言ってきた。
いやぁ!お母さんは、喜んでるんだよ。照れ隠しなんじゃないか?
というと、
「お父さんはお母さんのことツンデレみたいに言ってるけどそれは夢みてるよ!フーンやから。これは裏も表もない。フーンやから!」
でも、父は母の喜びを読み取りました!という話。
高校のホームページに掲載されているのを見つけ、じっくりと鑑賞した。
ひさしの濡れ方とか田んぼの水滴、水面に映る影、背景の霞みなど、短時間でここまで表現できるものだろうか。能登の小さな集落で雨の中で描かれた絵は、額縁にいれて、自分の部屋に飾ってみたいものだと思ったよ。
このところおとなしくしている理由
この頃アップロード数が減って沈黙している。何もやってないわけではない。熱意が冷めたわけでもない。
町を歩けば、花を見つけたり鳥の声を聞いたり、心動かされることはたくさんある。SNSに載せるべく写真も撮ってはいるし、原稿を書き出してみたりもしている。でも結局ボツにして済ませている。
坐禅をしてその時どきの気づきを記録しておこうと思ってきた。しかし、SNSに勝手な思いつきをペラペラと語るのは、何だか軽薄な感じがある。そして誰かの考えを聞いて、それに対する批判が発言の動機になったりする。釈尊は討論はするなと言われているのだ。討論は、学者たちに任せて、黙るべきだとこの頃思う。他者は間違ってて自分は正しい、という争いだからだ。学問といってもその正体は争いなのだ。そもそも争いから脱却したいと思っているわけだから、わざわざ争いの中に身を投じるわけにはいかぬ。もっとも、学問、研究は、大事である。広範な知識と深い洞察力が必要で、それは学者に任せた方がよいのだ。
ただ黙って坐る。耕月老師はいつもいう。
「ザブの上で坐相を調え、ただ息してるだけ」
考えたら考えたまま。怒りが出たら怒りが出たまま。そのまま行け!と言われる。
何かを知ることではない。知識を集めることではない。何かを考えることではない。明鏡止水の精神状態を作り出すことでもない。煩悩、怒りや欲が出てこない境涯を作ることでもない。何が起きても心身共に微動たりもしないというのでもない。全宇宙と一体になった経験をすることでもない。ましてや、聖人となって、神通力を得ることでもない。でも、たいていは、これの逆をやっている。正しい指導者が大事なわけだ。
仏教でもわかりやすい理解でいうと、猿のように飛び回る心を修行でコントロールして、欲や怒りから解放された境地を手に入れる、という説明がなされる。そのためにサマディを手に入れ、一切に気づいている修行を重ねる。それで煩悩が消えるという。あるいは、万物は仏性を持っていて、煩悩によって働きを阻害されてしまっていると言い、修行により煩悩を払っていくのが仏道だとされる。
あるいは、修行にとても堪えられない自分の弱さを認めて、絶対の働きに委ねるという生き方もある。このあたりは、キリスト教でも似ていて、行為によってではなく信仰によって義とされるというパウロ神学の核心がここにある。
しかし、禅仏教は、これでは間接的だというのだ。「直指人心、見性成仏」を旗印にして、直接わかれよという。即心是仏、心がそのまま仏なのだという。つまり、「自己を対象にして見るなよ」というのである。
禅が理解できない理由はここにある。理解すべき対象はないのである。
「わかりやすい仏教」つまり一般的な仏教理解では、自己を対象にしているのである。
先日、NHKで「夜と霧」のフランクルが現代人の苦しみの原因は「過剰自己観察」によるのだと言った。耕月老師はいつもいう、「自己を見るな。自己を観察するな」と。
仏教と言っても、対象化された自己を分析している限り「過剰自己観察」に陥ることになる。パウロの言葉でいうと「律法によって死ぬ」ということになるか。
そうではなくて、「コペルニクス的転回」が必要なのだ。対象としての自己から離れて主体を取り戻すのだ。「一無位の真人」を看よ!というのだ。
こう言ったところで、何を言っているか理解されることは稀である。説明しようとすれば、禅問答を引っ張り出すことになって、ますます訳がわからなくなってしまう。考えようによっては、迷路の中をさまよってみるのもまた楽しいかもしれない。「求めよ、さらば与えられん」なのだ。
逆に言うと、訳わからない禅の語録が1000年以上の長きに渡って保存、伝えられてきたことがすごいことなのだと改めて感じる。語録は知識を伝えるのでない。何かを経験させようとしているのか?否、経験は対象だから違う。自覚そのものを示している。言葉は対象であり観念だから、対象でない自己を表現することは不可能というべきところ、言葉でやっちゃっているわけだ。禅問答の難しさの原因だ。
禅仏教が示したいものは、言葉の範疇を超えてしまう。坐禅で学ぶことは、言葉にはならない。たから、ぺちゃくちゃおしゃべりしているうちは、全然、禅門をくぐっていないわけだ。自らが坐って釈尊に直接まみえる必要があるのだ。自己が釈尊なわけだ。たが、これがなかなか信じられないわけなのだ。
耕月老師に、イソヒヨドリが自己です!と何度も繰り返して話してて、温厚な老師は困惑されている。臨済僧だったら、こっぴどく殴られているところだ。イソヒヨドリが対象になっていると取られているだろうから、老師も認めるわけにはいかない。今、こう話しているこれ!なんですけど。
耕月寺のイソヒヨドリ、苦悩する私を気にも止めず、チュルリチュルリ!と美しく鳴いている。
また余計なおしゃべりをしてしまったな!