重いザックを背に山腹の暗い森を黙々と登り続けてようやく尾根に出ました。ひとまずザックを下ろし、ホッと息をつき汗をぬぐってふと気付くと周りは明るいアカマツ林。登山者なら誰でも経験したことがある情景に違いありません。マツは日頃からなじみ深い木ですが、山麓の天然の樹林帯ではほとんど見かけず、出会うのはもっぱら明るい尾根に出てからです。どうしてなのでしょう。

 

 植物にはそれぞれ生育適地があり、日本の林業でも昔から「尾根マツ谷スギ中ヒノキ」といってマツは尾根に植えるものとされてきました。といった次第でマツは尾根が適地、か?というと、そう単純な話ではありません。マツは本来、よほどの湿地でなければ中腹でも谷でも良く育つのです。現に東北でよく見かけるアカマツの植林地は結構山裾まで広がっています。しかし自然状態では、他の多くの樹種にも適地である中腹以下は競争が厳しく、マツはこの競争に勝ち抜くことができないため、やむなく生育条件の悪さから他の樹種が見向きもしない尾根や岩場などに張り付いて生き延びているのが実情なのです。

 

 マツをよく見る尾根や岩場は、植物に不可欠な水が不足するうえ季節風に晒されて乾燥しやすく、また土壌中の養分が雨水で下部に流出するため栄養条件も良くないなど、植物の生育に不利な条件が揃っています。しかしそれゆえ競争相手も少ないことから、あえてこうした悪条件の地に根を張ることで厳しい生存競争を生き延びてきたマツのような植物もあり、こうした生き方を専門用語で「ストレス耐性戦略」と呼びます。

 

 マツに限らずモミやツガ、シラビソやトウヒなどマツ科の常緑針葉樹は共通してこの戦略で生き延びてきました。秋も深まり広葉樹が葉を落としきると、これら常緑針葉樹が山肌のところどころにまとまって生えている様子が遠くから明瞭に確認できますが、よく観察してみるとこれら針葉樹が生えているのはほとんどが尾根や、土壌の乏しい岩角地であることがわかるはずです。

 

 では、これらマツ科の常緑針葉樹は前述のような植物生育上の悪条件=ストレスをどのようにして克服しているのでしょうか。実は、多くの菌類の助けを借りているのです。

 

 太古、植物が海から陸に進出するに際しては、先行して上陸していた菌類が大きな手助けをしたことが分かっています。以来現在に至るまで多くの植物と菌類の間で、植物が菌類を根に住まわせて光合成産物の糖分を与える代わり、菌類が土壌中に広く張り巡らせた菌糸で集めるリンなどの養分や水を受け取る共生関係が広く成立しています。

 

なかでもマツの祖先など裸子植物が出現したのは3億6千万年前で、現在の森の主役である広葉樹など被子植物が出現する1億4千万年前より遥かに古く、この長い時間にマツは広葉樹などに比べはるかに多くの菌類と共生関係を取り結んできました。というか、マツと多くの菌類は共に進化して今日のように重層的で多様な共生ネットワークを築き上げたのです。キノコは菌類の花に相当する器官ですが、松茸や松露(ショウロ)などマツのみに付くキノコの多さからもそれが知れるでしょう。

 

 マツはこのようないわば「菌友(きんとも)」の多さを武器に他の樹木は生きられない荒地でも生き延びてきました。それは山だけでなく海岸も同じです。「白砂青松(はくさせいしょう)」は日本的絶景の代名詞で、これは海岸の砂地や岩礁などの荒地にクロマツがしぶとく根を張ればこそ成立した景観ですが、人手が入らなければ維持できないことはご存じでしょうか。

 

本州以南の暖帯地の海岸線は元はタブノキやシイの木などを主力とする照葉樹林に覆われていました。そこへ人が進出し、建材や生活具材や燃料とし。これらの木々をくり返し伐採利用し尽くした結果、土壌がやせ細ってクロマツ以外は生きられなくなり「白砂青松」になってしまったのです。また防風林や防砂林として植樹するにもクロマツ以外の選択肢はなかったため、現在に至る白砂青松の景観が人工的にも造成されたのでした。

 

 クロマツはこんな荒地でも「菌友」の助けと光合成で伸び育ち、葉や枝を落としやがて命尽きて土に帰ってゆきます。しかし、これが繰り返されると土は徐々に栄養豊かになって他の樹種が侵入、こうなると競争力のないマツは衰退し消えてゆくしかないのが自然の遷移システムです。ですからこれを食い止めなければ「白砂青松」は維持できません。さて、どうしたのでしょうか。

 

 今は流行らないでしょうが、結婚前の結納という儀式では新婦側からの結納返しの品のひとつに「高砂」というものがありました。熊手を持ったお爺さんと箒(ほうき)を持つお婆さん二体セットの人形で、お爺さんは正確には尉(じょう)お婆さんは姥(うば)といい「おまえ百(掃く)までわしゃ九十九まで(くまで)」と夫婦の円満長寿を祈念する寓意が込められています。が、夫婦仲はこの際どうでもよくて、いま問題なのはこの二人が何をしているのか。実は播磨の高砂浜の松林で、家庭の燃料にする松葉や枯れ枝を熊手と箒でかき集めているのです。

 

かつて、油分が多いマツは家庭の燃料として貴重でした。当時の庶民に白砂青松を愛でる余裕や審美眼があったかはわかりませんが、尉や姥のような人々が生活のためクロマツの幹から葉に至るまでをせっせと運び出し続けた結果、土壌の生産力はいつまでも回復せず、その結果、クロマツ以外の樹種の進入が防がれて、意図せず白砂青松の景観も維持されてきたわけなのです。

 

逆の例も紹介しましょう。明治維新の主役の一人大久保利通は東京遷都後の京都を訪れた際、平安時代からの景勝地であった嵐山の荒廃に驚き、その理由を尋ねて地元民から「ご一新のせいだ」と言われて恥じ入ります。幕府の京都守護職は嵐山の景観維持のために山守を雇う金を出していたのに、維新政府はそれを無駄な出費として打ち切っていたからです。反省した大久保が金も出して嵐山の保護に努めた結果、現在の嵐山の美しい景観が形成されたとのことです。

 

と、嵐山関連サイトではこの話がよく紹介されているのですが、実際にはそう単純な復活美談ではなかったのでは? というのは、大久保が守ろうとした歴史的景観は端正に整美されたアカマツ林だったと思われるからです。京都周辺の山林は平安朝以降長らく都であった京の膨大な木材需要でことごとく皆伐され禿山となっていたことがわかっています。保津川を経由する丹波材の大集散地であった嵐山が例外であったはずはありません。そして禿山には荒地の主役アカマツが生え、庶民が枝や松葉を採取し続けることでそれが維持されていたのでしょう。しかし大久保らは嵐山の景観を守るため庶民が山に入ることを固く禁じました。その結果、皮肉なことにアカマツ林は壊滅、これに代わって落葉広葉樹が進出して現在に見るような紅葉の名所になってしまったわけです。ま、「結果オーライ」かもですが。

 

広葉樹ら進化した若く強いライバルの出現と攻撃に対し、旧世代のマツは菌類との繋がりを頼りに荒地で生き延びてきました。自然は適者生存の掟が貫く厳しい競争と選抜の世界です。しかし、強いだけが競争に勝つ方法ではないのですね。マツ科樹木のしぶとい生き方に、生態系が持つそうした懐の深さ不思議さを、少しでも感じてもらえたらと思います。