スミレは山で最も多く見かけるありふれた花のひとつです。群生し株数が多いこともありますが、成熟した森林や丈の高い草原など日光が入らない所は苦手で、もっぱら樹林帯であっても薄日が差す登山道の脇や、木道が設けられた明るい湿原の周辺などに生育するため、登山者の目に触れやすいせいもあるでしょう。

 

 

 このようになじみ深い路傍の花ですが、同定は容易ではありません。スミレ科は15から20属に分かれ、うち最大のスミレ属だけでざっと200種。「スミレ王国」と呼ばれる日本には約50種が分布するうえ、スミレの仲間はいま最も急速な進化の最前線にある植物グループのひとつで、亜種や変種、色変わり形変わりが次々に発見されているというのですから、なかなか素人の手におえるものではないですね。

 

 さて、スミレの仲間はいずれも小さく可憐な姿をしていますが、その生活史戦略はなかなかたくましくも巧みで、知れば知るほど深く感心させられます。

 早春、雪が融けまだ落葉樹が葉を出す前にスミレはいち早く花をつけます。この時期であれば春の陽光をいっぱいに受けて光合成ができるうえ、他の植物はまだ眠っていて受粉を媒介する昆虫を巡っての競争も少なく、受粉を有利に進められるからです。

 

 そのスミレの花は5弁からなり上部の左右二枚が上弁、下部の左右二枚が側弁、さらに下部中央の長い花弁が唇弁(しんべん)と呼ばれ、その唇弁の奥に距(きょ)という袋状の突起があります。この距こそがスミレ属の特徴で、この形を大工道具の「墨入れ」に見立てて「スミレ」と名付けられたという説もあるのですが、ともあれ、ここには受粉の媒介者(ポリネーター)を呼ぶための蜜が蓄えられています。


 この蜜を吸うには、下向きに咲いたスミレの花に対し逆立ちで中空にホバリングしながら頭を突っ込み、さらに距まで長く舌を伸ばさねばなりません。こんな芸当ができるのはハナバチの仲間だけです。ついでの話ですが、ハナバチは最初に訪れた花を専門に訪れるようになる性質があります。植物にしてみれば他の花に浮気されなければ効率の良い受粉が期待できるわけなので、スミレのようにポリネーターをハナバチ専属にした植物も少なくありません。


 さて、スミレの花の距にある蜜は、ハナバチが雄しべや雌しべをかき分けて花の奥まで頭を突っ込み、一杯に伸ばした舌がギリギリで蜜に届く絶妙な場所に置かれていて、蜜を吸おうとすればハナバチの全身が花粉まみれになったり雌しべに触れたりする仕組みになっています。さらにスミレの花は雄しべが先に成熟するようになっていて(「雄性先熟」といいます)、ハナバチが花粉まみれになる花では雌しべは未熟で受粉することはなく、逆に雌しべの成熟した花では雄しべは花粉を出し終わっています。このようにして自家受粉を巧みに防ぎ他家受粉を成立させることで子孫の遺伝的な多様性を図っているのですね。

 

 しかし夏になると落葉樹が茂り、他の草本類も繁茂してきて受光条件が悪化するとともに、花も多く咲きポリネーターをめぐる競争も激しくなります。こうなるとスミレは作戦を転換、できるだけ茎を伸ばし薄く広い葉を展開して乏しい日光でも可能な限りの光合成を維持するとともに、地面近くに「閉鎖花」といってつぼみのままで終わる花をつけ、この閉鎖花の中でなんと、雄しべと雌しべが同時に成熟し自家受粉を敢行するのです。自家受粉ならハナバチへのお礼の蜜もハナバチを呼ぶ標識の花弁も不要ですし花粉も少なくて済みます。生まれる次世代は親のクローンであって遺伝的な多様性こそ望めませんが、乏しい光合成でも可能な、極力コストを抑えた繁殖方法で種族の維持を図る見事な作戦なのです。


 

 受粉した雌しべは子房が膨らみ果実となって垂れ下がり、熟すに従ってそれが上向きになって、やがて三菱のマークのように裂開(写真)。さらに乾燥が進むと裂開したボートのような「さや」の皮が収縮し、その圧力で種子を最大で5m以上もはじき飛ばします。


 その種子には脂肪酸やアミノ酸からなる高栄養の「エライオソーム」という付属体がついています。これを食料にしたいアリは種子から引きはがそうとしますが強固にくっついて離れない。そこでアリたちはやむを得ずエライオソームを種子ごと巣に運んでぼちぼち食べるのですけれど、種子は食べられないし邪魔になるしなので巣の外に捨てます。かくして種子はそこで発芽するのです。いやあ、してやったり! スミレはここまで見通してアリを巧みに利用し、分布域をじわじわと広げているのです。

 スミレは山だけでなく町でもよく見かけます。交通量の多い道路の片隅やビルの裾など、コンクリートのわずかな隙間から顔を出しているスミレの花は、このようなアリを利用した種子散布戦略の成果とみて間違いありません。小さなスミしかし、知れば知るほど、まことに見事な生活史戦略を備えた偉大な生命体だとは思いませんか? 次に山で可憐なスミレを見かけたら、ぜひ、その巧みにも健気な生き方に思いを馳せていただきたいと思うのです。