『天台小止観』は、その昔、天台大師が説かれた「禅」(止観(しかん))についての指導書です。
『天台小止観』の易しい解説本『微笑む禅』と読み合わせるために、関口真大さんの訳文を書き留めておくことにしました。
『天台小止観』
訳/関口真大
略して矇(もう)(=道理に暗いこと)を開き
初めて坐禅止観を学ぶ要門を明かす
天台山(智)顗禅師 説く
斎国沙門浄弁 私に記す
【第六章 正修の行】
(歴縁対境(れきえんたいきょう)の止観)
止観を修習しようとする者は、とくに注意ぶかくこの一章のなかの首尾の意趣を思い取らなければならない。
止観の修習には二種類ある。
一には坐禅のなかで修習すること、
二には縁に歴(わた)り境に対して修習することである。
(第一の坐禅の止観については、前回のブログを参照)
歴縁対境の止観
端身常坐が入道のための最も優れた肝要なものではあるけれども、しかし人間である以上は種種のかかわり合いが多く、かつ種種の縁にかかわりを持つ。
もしあらゆる縁にしたがいすべての境(ものごと)に対してそこで止観の修習をするのでなければ、修行の心に隙間があり、そこで煩悩が処に応じて起こって来る。
それではどうして疾(すみ)やかに仏法と相応することができようか。
もしあらゆる時に、いつでも禅定と智慧のための修行を修する人は、必ずよく一切の仏法に通達することができる。
どんなふうにやるのを縁に歴(わた)って止観を修習するというのか。
ここにいう縁とは、いわく六種の縁である。
一に行、二に住、三に坐、四に臥、五に作作、六に言語である。
境(ものごと)に対して止観を修すというのはなにか。
いまいうところの境とは、一に眼は色(しき)に対し、二に耳は声(しょう)に対し、三に鼻は香(こう)に対し、四に舌は味(み)に対し、五には身に触れるものに対し、六に意は考えられるものごと(法)に対する。
われわれがこの十二の事象のなかで止観を修習することを、縁に歴(わた)り境に対して止観を修習するというのである。
◆歴縁
行
われわれがもし行こうとするときは、まずこのように考えるがよい。自分はいまなんらのことのためにそこへ行こうとしているのか。もし善くないことのため、どうでもよいようなことのためであるなら、行かないほうがよい。もし善いことのため、人の利益になることのため、正しいことのためであるなら、行くがよい。
行のなかに止を修するとは、そこへ行くことが原因になって種種の善悪等のものごとがでてくることになるが、しかも一つとして得べきものはない。これがよくわかればすなわち妄念は起こらないであろう。これを行のなかに止を修すると名づける。
行のなかに観を修するとは、まさにこのように考えるがよい。心が身(からだ)を運ぶから、去るとか来るとか、往くとかかえるということがある。それが因になって、そこにいろいろな善いこと悪いことなどがあることになる。それを行くというのである。かえってそこへ行く心そのものを観察してみると、すべて見られる相(すがた)はない。まさに知るべし、行く者もおよびいろいろな出来事も、つきつめてみれば空(くう)なのである。これを観を修するという。この行のなかにもまた五番に止観を修習すること、前に説明したとおりである。(坐禅と同じように、止観を五つに分けて修習する)
住
つぎに、もし住しようとするときには、まさにこのように考えるがよい。自分はいまなんらの事のためにここに立ち止まろうとするのか。もし善くないこと、どうでもよいようなことのためであるなら、立ち止まらないほうがよい。もし善いこと、人に対して役立つことのためなら、すなわちまさに立ち止まるがよい。
住のなかに止を修すとは、どういうことか。すなわち立ち止まることが原因になってそこにいろいろな善悪等のものごとがあることになるが、しかもよく観察してみると一つとしてつかまえどころのあるものはない。これがよくわかればすなわち妄念は起こらないであろう。これを止を修習するという。
住のなかに観を修するとは、心が制御しようとするから、身を立てて立ち止まる。そしてそれによってそこに種種の善悪等の出来事があることになる。これを住と名づける。反ってその住せよという心そのものを観察すると、その心の相貌(すがたかたち)を見ることができない。まさに知るべし、住する者もおよび一切の出来事も結局は空(くう)なのである。これを観を修習すると名づける。住のなかにまた五番に止観を修する意がある。これも前に説明したとおりである。
坐
つぎに、もし坐のなかにおいては、まさにこのようなふうに考える。自分はいまなんのためにここに坐ろうとしているのか。もし善くないことのため、どうでもよいようなことのためなら、ここに坐らないほうがよい。もし善いことのため人の利益になることのためなら、すなわちまさに坐るがよい。
坐のなかに止を修習するとは、自分がここに坐ったことが原因して、そこにいろいろな善悪等の出来事があることになるが、しかもそのなかに一つとしてつかまえどころがあるものはない。これがよくわかればすなわち妄念は起こらない。これを止を修習するという。
坐のなかに観を修すとは、まさにこのように考えることである。心がそう思うことによって、脚を重ねて身をおちつけ、それによっていろいろな善悪等の出来事があることになる。これを坐るというのであるが、反って坐る心そのものを観察してみるとその相貌(すがたかたち)を見ることができない。坐る人も一切の出来事も結局は空(くう)なるものである。これを観を修習するという。坐のなかにもまた前に説いたような五番に止観を修する意がある。
臥
つぎに、もし寝臥(しんが=ねること)のときには、こう考える。自分はいまなんらの事のために臥(ね)ようとするのか。もし正しくないことのため、放逸(なまけ)るなどのことのためであるなら、臥(ね)てはいけない。もし体を調えるためなら、臥(ね)るがよい。臥(ね)るときはライオンの王が臥るように、堂々と臥るがよい。
どんなふうに臥のなかに止を修習するのか。もし臥て休むなら、このように知るがよい。臥ることがもとになって、そこにいろいろな善悪等の出来事があることになるのだが、しかもそのなかに一つとしてつかまえどころのあるものはない。これがよくわかればすなわち妄念は起こらないであろう。これを止を修習するという。
どんなふうに臥のなかに観を修習するのか、こう考えるがよい。心が疲れ気力が弱るので、心が暗くなり、手足を休ませる。それによってそこにいろいろな善悪等の出来事があることになる。それを眠るというのであるが、反って臥る心そのものを観察してみると、相貌(すがたかたち)の見るべきものない。すなわち臥る人も一切の出来事も結局は空(くう)である。これを観を修習するという。臥るなかにまた五番に止観を修習する意がある。これも前に説明したとおりである。
作
つぎに、なにかを作(な)そうとするときには、自分はいまなんのためにそれを作そうとするのか。もし善くないこと、どうでもよいようなことのためなら、作さないほうがよい。もし善いことのため人のためになることのためなら、まさに作すがよい。
どのように作(な)すということのなかに止を修習するのか。もし何かを作すときにはこう考えてみるがよい。いまこれを作すことが原因になって、そこにいろいろな善悪等の出来事があることになるが、しかも一つとしてつかまえどころのあるものは無い。これがよくわかればそこで妄念は起こらないであろう。これが止を修習するということである。
作(な)すということのなかに、観を修習するには、どうしたらよいか。こう考えるがよい。心が体や手を動かすことによって、いろいろものごとを作すことになり、それによっていろいろな善悪等のものごとがあることになる。ところが反(かえ)って作す心を観察してみるに、すべて相貌(すがたかたち)は見られない。すなわち作す人も、作されるものごとも、結局は空(くう)である。これを観を修習するという。作すことのなかにもまた五番に止観を修行する意味があること、前に説明したとおりである。
語
どういうことを語のなかに止を修習するのか。こう考えることである。このおしゃべりによって、そこに善悪等のいろいろな出来事があることになるが、一つとしてつかまえどころのある実体のあるものはない。このように識(し)ればそこで妄念は起こらないであろう。これが止である。
語ることのなかの観とはなにか。こう考えるがよい。心の動きによって気息を鼓動し、のど•舌•歯ぐきを衝(つ)くから、音声や言語が出る。それによって善悪等のいろいろな出来事があることになる。これが語るということである。反(かえ)って語る者の心そのものを観察してみると、ここには相貌(すがたかたち)が見られない。実体はない。つまり語る人も、種種の出来事も結局は空(くう)である。これが観を修習するということである。語るということのなかにもまた五番に止観を修習する意味がある。前に説明したとおりである。
◆対境
眼
ものを見るとき、水のなかの月のように、定まったものもなく実体があるわけでもないと知り、もし気に入ったもの、快いものを見ても、それに対する貪愛(とんあい=とらわれ)を起こさず、いやなものごとを見ても恚(いか)りを起こさず悩みも起こさず、その他の様様なものごとに接しても迷いも起こさず、いろいろに乱れた心を起こさない。これが止を修習するということである。
眼でものを見るときに観を修習するというのは、どういうことか。
見るということがあっても、見るということに定まった相(すがた)があるわけではない。なぜなら眼耳鼻などの五根*(ごこん)と色声香味触の五塵*(ごじん)の境が和合するからそこに眼識が出生し、その眼識が原因になってそこに意識が生じ、意識が生じたときにいろいろのものごとを分別する。これによって善悪等のいろいろな物事があることになる。反(かえ)って色を念ずる心を観察してみると、相(すがた)も貌(かたち)も見られないし、実体がない。見る人も見られたいろいろな物事も、結局は空(くう)なるものである。ここにもまた五番に止観を修行する意味がある。これも前に説明したとおりである。
耳
鼻
舌
身
意
〈注〉
*五根(ごこん)
眼・耳・鼻・舌・身。
根(こん)は、感覚器官のこと。
*五塵(ごじん)
色(しき)•声(しょう)•香(こう)•味(み)•触(そく)。
塵(じん)は、根(こん= 感覚器官)の対象となるもの。
*六分(ろくぶん)
頭・身・両手・両足。
*四大(しだい)
すべての物質を構成する要素は地大・水火・火大・風大の四種で、それぞれ堅・湿・煖・動を本質とし、持・摂・熟・長をその作用とする。人体においてもこれらが調和していることが健康のしるしである。
*須菩提(しゅぼだい)
釈尊の十大弟子の一人。仏弟子のなかで空(くう)を解すること第一であったといわれる。
*大衣(だいい)
比丘(びく=僧侶)が持つことを許された三衣のうちの僧伽梨(そうかり)のこと。三衣のうちで最も大きいため大衣ともいい、王宮や聚落に入って説法するときなどに用いるので入聚落衣ともよばれる。
*摩訶衍(まかえん)
梵語の音写。大乗と訳す。大きな乗りもの。
*澹泊(たんぱく)
心があっさりとしていて心配がないこと、淡泊と同じ。
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最後の詩が、心に沁みました。
日々の生活のなかで、妄想を起こさない「止」と実相を正しく捉える「観」を心がけていくことで、自分の心を制御し、より平穏な心で過ごしていけるようになるのではないかと思います。(みゅ)


