以前ブログで、『微笑む禅 生きる奥義をたずねて』(松居桃樓(楼)(とおる) 著)という「天台小止観(てんだいしょうしかん)」について書かれた本をご紹介しました。
「天台小止観(てんだいしょうしかん)」は、今から1400年前に、中国の天台大師が「止観(しかん)」(坐禅の一種)について講義したものを弟子の一人がまとめあげたと言われています。坐禅のやり方を具体的に教えた書物として歴史的には最も古いものであり、内容的には一番くわしく書かれたもので、それ以後に中国や日本でできたほとんどすべての坐禅の指導書は、例外なしに直接または間接の影響を受けているーと研究者は述べています。
しかしその教えは、修行僧でない一般の私たちにとって実践することがなかなか難しい内容です。
松居さんは、そんな、とっつきにくい「天台小止観(てんだいしょうしかん)」で天台大師さまが伝えたかった真意を、私たちにも分かりやすいように優しく噛みくだいて解説してくださっています。
後々、読み返すことができるように、その内容をブログにまとめておこうと思いたちました。
もしも、思索の助けとして、このブログがどなたかのお役にも立てるのであれば、幸いです。
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“天台小止観(てんだいしょうしかん)の止(し)とは、「感情を波だたせないこと」であり、観(かん)は「思考力を正しく働かせること」です。”
前回までは、
止観(しかん)の練習の前に準備する五つのことがらのうちの一つ、
「持戒清浄(じかいせいじょう)」が「ほほえみを大事にする」ということであり、頭では分かっていてもそれがなかなかできないという人は、体と心のしこりを解きほぐすことを繰り返し続けていけば、必ずほほえむことができるようになる。
もう一つ「衣食具足(えじきぐそく)」というのは直訳すれば「きものとたべもののととのえ方」にすぎませんが、その根本の精神は、『我が物を我が物と言わず』という暮らし方と、『無条件で無限に助け合う仏道修行のグループ』を作ること…この二ヶ条に尽きる。
そして「近善知識(ごんぜんちしき)」はその修行の援助者や同志はむしろ修行の指導者として充分に尊敬できる人物をえらべ。
「閑居静処(げんごじょうしょ)」は、「できるだけ、静かな所で修行をしろ」ということですが、これも、なるべく人間とは縁の遠い、大自然と向かい合って修行すべきだー という意味が含まれていると思うー。
最後に、「息諸縁務(そくしょえんむ)」は、俗世間な仕事やつきあいその他のことに、少しの間関わり合わないー
という内容でした。
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“「呵欲(かよく)」とは、欲をしかりつけろー というんですから、「呵欲(かよく)第二」とは、「第二章、欲を捨てろ」とでもいうべきでしょうか?
すでに第一章で、修行を始める前の基本的条件の説明は終わり、次はもう少し具体的な練習をするのかと思ったら、「欲を捨てろ」なんていう抽象(ちゅうしょう)的なお説教を、なんで繰り返す必要があるのかー。
しかし、第二章の内容が、単なる抽象的なお説教ではないことが段々にわかっていただけると信じ、その本文に目を通してみましょう。
「呵欲(かよく)第二」の書き出しには、『言う所の呵欲(かよく)とは、すなわちこれ五欲(ごよく)を呵責(かしゃく)(=責め苦しめること)するなり。それ坐禅して止観(しかん)を修習せんと欲するに、必ずすべからく呵責(かしゃく)すべき五欲とは、すなわちこれ、世間の、色(しき)、声(しょう)、香(こう)、味(み)、触(そく)なり』とあります。
われわれ人間が、世の中のありとあらゆる現象を、認識するための感覚器官は、大ざっぱに言って眼と耳と鼻と舌と皮膚である以上、われわれの体の外側から感情を波だたせるものは、色と音と香りと味と肌ざわりの五種類に、分析できるーというんです。
「天台小止観(てんだいしょうしかん)」では、人間が生存するために、ぜひとも必要な食べ物や着物や、その他の品々を、所有したり貯蔵することを、必ずしも絶対にいけないーなどとは言っていません。ただ、人間が生きていく上に、直接関係のないぜいたくなものをむさぼりたがる「愚かな心」を捨てろーと、言っているんです。
その問題について、「呵欲(かよく)第二」の後半に、次のような意味のことが書いてあります。
『まあ、今の世のありさまを、よく見てごらんなさい。
気の毒なことに、世間の人間の悩みの多くは、何かが欲しいためのイライラか、何かを失いたくないためのビクビクか、何かを失ったためのクヨクヨなんだ。だから、「なるほど、そうだ」と、気がついたら、ぜいたくな物を欲しいーという気持ちを捨てりゃいいのに、あべこべに、もっと欲しがって苦労する。
この、見たい、聞きたい、嗅ぎたい、味わいたい、さわりたいーという五つの欲は、希望がかなえばそれで満足するんじゃなくて、かなえばかなったで、もっと欲しくなるばかり。しまいには、手段をえらばず、むさぼり始める。
まるで燃えさかる火に、たきぎを投げこむようなもの。
しかも欲望というものは、手に入れてみると、なんの味もソッケもない。まるで犬が、干からびた骨を噛むようなもんだ。
欲望が、人間同士の争いのもとになることは、鳥が餌を奪い合って喧嘩するのと同じこと。欲望によって人間が、心も体もすりへらしてるありさまは、風に向かってたいまつを振りかざしていくようなものだ。欲望が、人間にとって危険なことは、毒蛇を素足で踏みつけるのと変わりない。
欲望に、なんの値うちもないことは、夢のなかで物を拾うようなもんだ。そのあげくに、やっとこさで欲望がかなったとしても、そのよろこびは、アッという間に消えてしまう。
それだのに、世間の愚かな人たちは、死ぬまで欲望を追いかけまわす。
いや、それどころか、死んでしまったのちまでも、あとに残った人々に、はかり知れない苦しみや、悩みをたくさん残していく始末だ。
だからあなたも、もう少し、思考力を正しく働かせて、感情をたかぶらせるもとをよく見きわめ、そういう見かけだけの快楽には頓着(とんちゃく)しないこと。その結果として「何ものを欲しがらず、何ものを失うことも怖れない」という心境になりきることこそ、人生最高の幸福なのだ。
そして、そういう心境になりきるには、昔の人が教えてくれたように一回一回の呼吸にも、すべてを忘れて「ほほえみ」に徹しきれる修行が必要なんだ。』
ーとまあ、こんなふうに、くり返して『欲を捨てろ』と、すすめています。
それにしても、ただ口先だけで、いくら『欲を捨てろ』といわれたって、そう簡単に実行できるものではありません。
さあ、そこで、天台小止観「呵欲(かよく)第二」の練習を始める必要が起こるんです。
一体その練習とはどんなことかというと…
あなたが、何かを、今すぐ絶対に必要なわけじゃないのに、それでもぜひとも「欲しいなあ」と思うようなものがあったとしたら、その対象物をよく分析して、『一体全体、自分がそのものを欲しいと思うのは、そのものの色や形が気に入ったのか?味が気に入ったのか?その手ざわりや肌ざわりが気に入ったのか?それとも、そのいくつかがまざっているのか?ーと、自分で自分に問いただしてみろ』ーというんです。
そして、あなたがそのものを気に入った理由が、もし色なり音なりにおいなり、味なり肌ざわりだったとしたら、あなたにとって、その対象物は、ぜひとも見る必要があるのか?それとも聞く必要があるのか?嗅ぐ必要があるのか?味わう必要があるのか?あるいは、さわってみる必要があるのか?ーと、ひとつ、ひとつ思い返してみろーというんです。
いかがでしょう。これはもう、抽象的なお説教なんてものじゃあなくて、むしろ、思考力の訓練とでもいうべきじゃないでしょうか。
くれぐれも誤解のないようにしていただきたいのは、以上のような五つの項目の練習なるものは、いわゆるおこないすました禁欲生活をするためではなくて、すべての人間が生きていく上に、本当に必要なものは「何か?」という問題を、いつも、正しく判断できるための、「思考力の訓練だ」ということです。
そして、この「思考力の訓練」こそが、まさしく、止観(しかん)の修行の第一歩なんです。
次回は、「第三章、心の中から感情を波だたせるものを払いのける方法の練習」についてお話することにいたしましょう。”
<松居桃樓(とおる)『微笑む禅』より>
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