↓これは少し前に撮影した白モクレン
空に向かう白いつぼみが
灯火のように見えました
↓駐車場の脇に群生していた
ギョリュウバイ。
花の一つ一つは
小さいのですが
独特の濃い紅色が集まると
華やかで
目をひきます。
↓お寺の脇の河津桜が
まだ綺麗に咲いていました。
甘い香りが漂います
↓よく立ち寄るお寺の境内の休憩処
↓入り口のところに
何か文字が書かれた
木の板がかかっています。
今まではその字を見ているようで全く見ていませんでした。
昨日はなぜだか急に気になって、右側の「閑境」という字のように読める部分だけを頼りに^^;ネット検索を始めました。
その結果、、、
おそらく「境閑則心朗」(写真右側から)
「境(きょう)閑(しずか)なるときは則(すなわ)ち心(しん)朗(ほが)らかなり」
という空海さん(弘法大師)のお言葉ではないかというところまで何とかたどり着くことができました;;;
「境(きょう)は心(しん)に随(したが)って変ず。
心(しん)垢(けが)るれば境(きょう)濁(にご)る。
心(しん)は境(きょう)を逐(お)って移る。
境(きょう)閑(しずか)なるときは心(しん)朗(ほが)らかなり。
心境(しんきょう)冥会(みょうえ)して道徳玄(はるか)に存す。」
(空海『性霊集』巻ニ)
空海さんの漢詩文集『性霊集(しょうりょうしゅう)』に収められた漢詩の中の一節が、お寺の休憩処の入口に掲げてあったのです。
その意味を色々なサイトで調べたところ、
「環境は、心のもちようによって変わる。
心が汚れていると、環境も汚れ濁る。
また心は環境によって左右される。
環境の良いところでは心もほがらかになる。
心と環境がお互いに整ったときに、ものごとの道理や真理が見えてくる。」
といったような解釈がほとんどでした。
私も最初はそれで納得したのですが、改めて漢詩を一語一語噛みしめてみると、何かしっくりきません。。
「境(きょう)」という言葉は、「環境」という意味合いで使われているのでは無いのではないか…と思い始めたのです。
「六境」
この「六境」の「境」のことを言っているのではないかと考えました。
そうすると、漢詩の解釈は全く違ったものになります。
「意識や感覚は、心のもち方によって変わる。
心が汚れていると、意識や感覚も汚れ濁る。
また心は、意識や感覚の状態によって移り変わる。
意識や感覚が穏やかで閑かに澄みわたっていると、心をさえぎるものが無いから迷いも無くなる。
心と意識•感覚が冥合(みょうごう=知らず知らずのうちに一つに合わさること)したとき、奥深い真理や道理がそこにある。」
(みゅ訳)
今で言う「マインドフルネス」や「瞑想」のようなことでしょうか。
今は何かと時間に追われる時代。
なにも坐禅を組んで瞑想しなくても、歩きながら、仕事(…はダメですかね;;;)しながら、家事をしながら、お風呂に入りながら、布団に入ってから(考えすぎると眠れなくなるので要注意;;;)、「ながら瞑想」ならできます。(私は食器の洗い物をしながらよくします)
何が良いかというと、閑かでない状況に陥ったときに、この瞑想が役に立ちます。
自分の心の中にお寺の休憩処のような場所を作っておくと、かたよらず•こだわらず•とらわれず、心閑かにほがらかになる世界が立ち現れてくると思います。
そして、そのほがらかな心で誰かの心を照らすことができたなら…。
そこが、空海さんの目指したところではなかったでしょうか。
↓公園に咲いていた
濃い紅色のおかめ桜