『歎異抄(たんにしょう)』に書かれた親鸞(しんらん)の教え。
 現代の私たちがこれをすんなりと理解するのは、なかなか難しいものがあります。
 なぜなら、そこには「信心」「仏を信じる心」という問題が立ちはだかるから。
 親鸞の時代ですら、阿弥陀(あみだ)仏への信心をめぐってさまざまな考えが噴出したといいます。

 現代を生きる私たちは、この宗教書をどのように受け止めることができるのでしょうか。
 最終回は、『歎異抄』から「人間にとって宗教とは何か」を考えます。



解説:釈徹宗さん(宗教学者•僧侶)



  • アンケートをとると、日本人の60%が無宗教を表明→先進国の中でも突出して多い
  • しかし、古い人形は怖い•亡くなった人ともつながっているんじゃないか•厄年のお祓いをする•畳に土足のままあがらない…など、広く見ると私たちは何らかの宗教的行為を営んでいる
  • そこに何らかの秩序があるのではないかという恐れ=行為様式
  • 行為様式こそ宗教の本質と考える人もいる
  • そもそも人間の生活には宗教的要素があるのだと考えるなら、そのことについて一度考えるべきなのではないか
  • 『歎異抄』は宗教について考える手がかり。宗教の本質の部分へとタッチするような道すじを開いているのではないか(釈)


『歎異抄』第十六条


『歎異抄』第十六条で批判されるのは、こんな異義。

「本願を信じて念仏する人は、腹を立てたり悪いことをしたり同じ念仏の仲間と口論をしたりしたなら、必ずそのたびに「回心(えしん)」悪い心を改めなければならない」

バツレッド
「それは悪を断ち、善を修めて往生しようという自力の考え方です。」(唯円)



一向専修(いっこうせんじゅ)のひとにおいては、
回心(えしん)といふこと、ただひとたびあるべし。

(現代語訳)

本願を信じてひと筋に念仏する人にとって、「回心(えしん)」こころを改めるということは、ただ一度だけあるものなのです。




その回心(えしん)は、
日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀(みだ)の智慧をたまはりて、
日ごろのこころにては往生かなふべからずとおもひて、
もとのこころをひきかへて、本願をたのみまゐらするをこそ、回心とは申し候(そうら)へ。

(現代語訳)

それは、常日ごろ本願他力の真実の教えを知らないで過ごしている人が、阿弥陀仏の智慧をいただき、これまでのようなこころのままでは浄土には往生することはできないと知って、その自力のこころを捨てて本願のはたらきにおまかせすることであり、これを「回心(えしん)」というのです。




信心定まりなば、往生は弥陀にはからはれまゐらせてすることなれば、
わがはからひなるべからず。

(現代語訳)

信心が定まったら、浄土には阿弥陀仏のおはからいによって往生させていただくのですから、わたしのはからいによるはずがないのです。




​わろからんにつけても、いよいよ願力を仰(あお)ぎまゐらせば、
自然(じねん)のことわりにて、
柔和忍辱(にゅうわにんにく)のこころも出でくべし。

(現代語訳)

自分がどれほど悪くても、かえってますます本願のはたらきの尊さを思わせていただくなら、その本願のはたらきを受けておのずと安らかで落ち着いたこころも起こるでしょう。




すべてよろづのことにつけて、
往生にはかしこきおもひを具せずして、ただほれぼれと弥陀のご恩の深重(しんじゅう)なること、
つねはおもひいだしまゐらすべし。

(現代語訳)

浄土への往生については、何ごとにもこざかしい考えをはさまずに、ただほれぼれと阿弥陀仏のご恩が深く重いことをいつも思わせていただくのがよいでしょう。




しかれば、念仏も申され候ふ。
これ自然(じねん)なり。
わがはからはざるを自然と申すなり。

(現代語訳)

そうすれば、念仏も口をついて出てまいります。

これが「自然(じねん)」「自(おの)ずとそうなる」ということです。

自分のはからいをまじえないことを「自(おの)ずとそうなる」というのです。



回心(えしん)は改心にあらず⁉︎

  • 回心(えしん)=仏教用語で、心の向きを変えるという意味。
  • ここでは「自力の心を捨てて他力の心が定まっていく、生涯ただ一回のような大転換」という意味
  • 例えば、自分の力で「生きている」と思っていたところから「生かされている」ことに気づくと、人間•世界の見方が変わる


世界は自然(じねん)でできている!

  • nature=自然(しぜん)は人為•人工の対(つい)概念
  • 自然(じねん)=「本来持っている性質」「あるがままの存在」
  • 振り返ってみるとこの道はこうでしかなかった
  • はからいが自然(じねん)のはたらきを妨げる
  • はからいを捨てようとすると捨てられない自分が見えてくる
  • とことん自分は捨てられない人間だとわかれば、もうこの身のままお任せするしかないという扉がひらく


信じる心はひとつ


『歎異抄』のあとがき「後序(ごじょ)」には、親鸞と法然(ほうねん)のこんなエピソードが記されています。

 

ある時、法然の弟子たちと、当時は善信と名乗っていた親鸞との間で、議論が起こりました。
その発端(ほったん)は、親鸞が言ったひと言。

「この善信の信心も、法然聖人の御信心もひとつ、同じです。」

それを聞いた弟子たちは、猛反発!
「どうして、法然聖人の信心と善信房の信心が同じであるはずがあろうか」
と詰め寄りました。

すると親鸞は
「法然聖人は、智慧も学識も博(ひろ)く、それについてわたしが同じであると言えば、たしかに間違いでしょう。
しかし、浄土に往生させていただく信心については、少しも異なることはありません。まったく同じです。」

それでも納得できない弟子たちは、法然に確かめることにしました。
すると法然は
「この源空(げんくう)(=法然)の信心も、如来からいただいた信心。
善信房の信心も、如来よりいただかれた信心です。
だから、まったく同じ信心です。
別の信心をいただいておられる人は、この源空が往生する浄土には、万が一にも往生されることはありますまい。」

「信心はひとつ」

この考えは、法然の弟子たちを驚かせたのです。


「信じる心」は同じ!


    

如来からいただいた信心

  • 信心は「信じる心」
  • 親鸞の信心は「信じさせていただく心」
  • 念仏は「仏さまにお任せします」という表明
  • 親鸞の念仏は「任せてくれ」と仏に呼ばれている
  • 念仏を「称(とな)える」=称名(しょうみょう)
  • 親鸞の場合は、念仏を「聞く」=聞名(もんみょう) 仏の呼び声を聞く それが他力の念仏


わたしのための物語


後序(ごじょ)には、親鸞が生前語っていたという言葉を、唯円がしみじみと思い出す場面があります。



聖人のつねの仰せには、

弥陀(みだ)の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれば、
ひとへに親鸞一人(いちにん)がためなりけり。

(現代語訳)

阿弥陀仏が五劫(ごこう)もの長い間思いをめぐらして立てられた本願をよくよく考えてみると、それはただこの親鸞ひとりをお救いくださるためであった。




さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、
たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ

(現代語訳)

思えば、このわたしはそれほどに重い罪を背負う身であったのに、救おうと思いたってくださった阿弥陀仏の本願の、なんともったいないことであろうか。





善悪のふたつ、
総じてもつて存知せざるなり。

(現代語訳)

何が善で、何が悪であるのか。

そのどちらも、わたしはまったく知らない。




煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぷ)、
火宅無常(かたくむじょう)の世界は、
よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、

(現代語訳)

わたしどもはあらゆる煩悩をそなえた凡夫であり、この世は燃え盛る家のようにたちまちに移り変わる世界であって、すべてはむなしくいつわりで、真実と言えるものは何ひとつなく、




ただ念仏のみぞまことにておはします。

(現代語訳)

その中にあって、ただ念仏だけが真実なのである。




宗教とは「物語」である

  • 「ひとへに親鸞一人がためなりけり」この俺一人を救うための願いなんだ、どうしても煩悩を捨てることのできないこの俺のためにこの仏はいるんだ。
  • 「物語」と「情報」はどう違うか
  • 「物語」は出会ってしまうと出会う以前に戻ることができない
  • 「この物語は私のためにこそあった」そういう物語と出会ったとき人は救われる
  • 「ひとへに親鸞一人がためなりけり」この言葉が、宗教の救いの本質の部分なのではないか(釈)


「情報」化する宗教の危うさ

  • 宗教はものすごい差別性・暴力性も内包している
  • つまみ食いすると、リミッターが効かない
  • 『歎異抄』はリミッターを再確認するための書という面がある(釈)