英検で英語力を判断するなんて(続) | 東南アジアとそこから見る日本

    「英語は使う環境や目的がなければ身につきにくいとされる」って、英語に限らずどの言語でもそうとちゃうんか?自らがどうやって日本語を習得したのかを振り返れば自明のことや。「小学校からの英会話の塾通い」にどれだけ効果が薄いかまだわからんか?塾で何やってんのんか知らんけど、うち帰ったら全部日本語やないか。そもそも、「会話」は塾で習うもんなんか?日本語の会話能力を塾で身に付けた日本人がおったらお会いしたいもんや。

    「コミュニケーションの土台は読解力」であることに異論はあらへん。先月、離婚裁判の資料にする日本人夫婦の会話を録音した音声を英訳したばっかりやけど、日本人が話す日本語にええ加減さを再確認したばかりや。読み書きは高度なんや。つまり、それに比べたらええ加減でも許されたりしてしまう口頭でのやりとり(会話)は容易なんや。

    せやけど、それがなんで「確かな国語力に支えられている」のや?ある言語の習得過程に別言語が介入すれば、文章構成も発音体系も、もっと言うたら、基幹や底辺にある文化的、歴史的な要素が異なっとる両言語の間で無理やり単語を置き換えようとする脳内作業を招くことになる。それは妨げ、邪魔でしかないんや。