日本語の発音体系を文字化するカタカナがどうやって他の言語を正確に書き表す道具となるのか?母印言語である日本語のカタカナが、どれほど外国語の習得の障害となってきたかについておわかりになっていないようだ。以前も書いたが、開高健が自伝的な作品でふれている「アイライラレラ」と同じ胡散臭さがプンプンする。

文科省の学習指導要領には「つながり」や「はしょり」についても指導するようにとの記述がある。この筆者はお読みになっていないのだろう。そして、そんなものは自然と身についていくもので、学校で指導するような内容でなければ、教員にそれが指導できるとも考えられない。そんなことより、すっきりはっきり発音することを学ぶべきなのだ。CBSでウォルター・クロンカイト(Walter Cronkite)の後継として長年にわたり夜のニュース番組を担当したダン・ラザー(Dan Rather)は、語尾の「g」を省略しがちだった自らの発音を矯正したと語っている。(カタカナなら「Rather」を「ラザー」と表記するしかない。)いい加減が先に身についてしまうと、「すっきりはっきり」はもう、ほぼあきらめた方がいい。日本語なら、長音や促音はどうでもいい、助詞は無視してもいいとでも言ってるようなものか。

そしてネイティブ。ネイティブって誰のこと?英語を第一言語とするシンガポール人はネイティブか?

日本人は「話せない」のではなく、「話さない」のだ。どうして話さないかというと、圧倒的な日本語環境で生活するうえで、英語なんて話す必要がないからに他ならない。英語の授業だって、日本語で教えて、そして学ぼうとしているではないか。日本語で学ぶ外国語に効果がないことに気づかないようだ。試験で出される発音記号の問題で満点なのに、実はどの記号も発音できないなんていうアホらしいことになってもいる。外国語を習得しようとする環境ではないのだ。