日本と北ベトナムはわずか2度の交渉機会を経て1973年9月21日、国交を樹立することに合意した。

日本政府の計画は、ラオスの首都ビエンチャンに事務官を派遣し、翌74年の春にはハノイに大使館を開設するというものだった。だが、国交樹立交渉で未解決のままだった問題をめぐって両国は対立することになり、74年夏の話し合いでも進展を見ることなく、国交はあるが政府間交流がない状態が続く。

問題のひとつは北ベトナムに対する戦後賠償で、国交樹立交渉の合意をもって日本政府が決定した2000万ドルの賠償ではない無償協力資金に北ベトナム側が納得しなかったのだ。サンフランシスコ講和条約条約締結後に南ベトナムに支払われた3900万ドル(110憶円)に比べて少ないだけでなく、資金を軍事目的に使用されたくない日本からの使途介入に反対したのである。

もうひとつは南ベトナムの臨時革命政府の承認問題だった。南ベトナム政府は臨時革命政府を承認する国とは国交を断絶する方針を明らかにしていた。前述したように、日本政府は北ベトナムの査証を持つ臨時革命政府の訪日代表団の入国を許可したりはしていたが、大平正芳外相が73年2月2日の衆議院予算委員会で「……解放勢力の存在は、隠すべくもないと思うのでありまするけれども、この勢力との接触は考えておりません」と述べており、また北ベトナムとの国交樹立は南ベトナム政府との関係に影響しないという立場であり、臨時革命政府を承認するという選択肢はなかった。「Japanese Relations with Vietnam, 1951-1987」によれば、国交樹立に向けた交渉の開始以前、北ベトナムは日本による臨時革命政府の正式承認を国交樹立の前提条件とはしていなかった。