そして「英語が話せない」ことの大きな理由が別にある。単純なことだ。「話せない」のではなく、限られてはいるかもしれないが文章構造についての知識があっても「話さない」のだ。なぜ「話さない」のかと言えば「話す必要がない」から。もっと言えば「わざわざ(誰かと)英語で話す必要があるんですか」「何か英語で話したいことがあるんですか」ということ。

 まさに「究極のおうち英語」ということに関係するかもしれないのだが、全員が日本語を母語とする人たちで構成される家庭(ほぼすべての場合が日本人家庭)で「いや、うちでは全部英語で暮らしています」というのが何割あるだろうか。皆無だと言って差支えないだろう。昔、「ヨリチカさん」だったか、そんなように行ったテレビ局のアナウンサーがいたような記憶がある。そんな家庭があったとして、それを奇異に思うのは偏見だろうか。

 両親が別々の言語を話したり、学校の授業がすべて母語以外で行われたり、また家庭と居住する社会で使用されている言語が異なったりするなど、二言語、あるいは多言語の環境で育たない限り、聞く話す能力の習得は困難なのである。不可欠な要素の一つは必要性なのだ。にも関わらず、さかんに英語、とりわけその会話力の習得の重要性を強調したがるメディアや教育産業に罪はないのだろうか。根本的には、会話力などというものが教えられたり、学べたりするものかとも思うのだ。口数が多ければいいのか?