マダム・ニューがアメリカを訪問する前の九月半ば、ハノイ時代には数々の不貞の噂が流れた彼女の母親であるマダム・チュオンは大統領実弟で自身の次女の夫であったゴ・ディン・ニューを「un barbare(野蛮人)」と呼び、マダム・ニューが訪米した場合は、ニューヨークとワシントンDCのベトナム人たちに「ニューの妻」を車で轢くようにとまで呼び掛けてている1。両親は目に余る行動と言動が理由で彼女をすでに勘当し、またディエム政権に反対して駐米大使と国際連合オブザーバーという公職をすでに辞していた。レ・スアンのニューヨーク到着時に両親が姿を見せなかったのは前述の通り。

 ワシントンDC滞在中、マダム・ニューは、両親の自宅を長女とともに訪れている。しかし、玄関のベルを鳴らしても、ドアをノックしても、応対する人はなく、両親と会うことを果たせていない。ベルを押したのはこの外遊に同行していたマダム・チュオンにとっての孫娘ということ(写真)2, 3

  娘が轢き殺されてもいいとさえ言った母親、マダム・チュオンもまた、「ドラゴン・レディ―」と呼ぶにふさわしい人ではなかったか。

 出世や保身のために不貞を重ねた人物である。日本のインドシナ占領期に外交官だった「横山正幸」を利用し、そして「ゴ・ディン・ニュー」との不貞さえ疑われていた人物なのである。両親の公職辞職について言及している著作は他にもあるが、マダム・チュオンの不貞疑惑をフランスの公式資料から見つけ出したのはデメリーが最初だろう。

1 Foreign Relations of the United States, 1961-1963, Volume IV, Vietnam, August-December 1963 (https://history.state.gov/historicaldocuments/frus1961-63v04/d118)

2 Demery., ibid., pp.188-189

3 TIME, October 25, 1963