北爆開始の時期を「一九六七年」と誤記している個所さえあったりする市橋秀夫による論文「日本におけるベトナム反戦運動史の一研究―福岡・十の日デモの時代1」には、「社会党・総評系の『全国実行委員会』は2月10日,1万人を集めて『椎名訪韓に抗議し,日韓会談粉砕・原潜寄港阻止・中央集会』を東京で開いているが,7日,8日と連日の北爆を受けて,これは事実上のベトナム侵略への抗議集会となった」と書いており、日本で言う「北爆」は二月七日の爆撃で開始されたという理解なのだろう。また「34A」にも、二月七日の爆撃のそもそもの原因となった解放戦線によるプレイク、キャンプ・ハロウェイ、クイニョンへの攻撃にも触れていない。

「アンポ神戸社」の保管資料に関する論文2には、「一九七一年の後半から、ベトナムによるカンボジア侵攻などが生じた」との記述も見られるが、何のことだろうか。解放戦線の総拠点(だと信じられた)「COSVN」を狙って米軍が秘密裡に行ったカンボジア領内への爆撃は一九六九年三月から翌年五月まで続いたものであり、クメール・ルージュ掃討を目的としてベトナム軍がカンボジアに侵攻したのは、「南ベトナム解放」から数週間後だったから、わざわざ言及するほどに重要だったはずのこの一九七一年後半のカンボジア侵攻が何を意味しているのかわからない。

「ベトナム戦争」がいつ始まったのか定義するのは容易ではないが、この戦争についていくらかの理解を得ようとするなら、少なくとも第二次世界大戦の終結から始め、インドシナの再植民地化を企てようとするフランスとそれに抗するベトミンとの別のベトナム戦争(第一次インドシナ戦争)まで遡らなければ、なぜアメリカが介入することになったのかは理解できないはずだが、いずれの論文も書籍も日本国内のベトナム反戦運動にひたすら狭く焦点を置いているので、説明なくともそんなことは知っていて当然だという姿勢なのかどうか知らないが、ベトナム戦争とは何だったのかという全体像をわずかでも知ることはできない。「フレイミングダート」にしろ、「ローリングサンダー」にしろ、これらの作戦に至る経緯、プレイク、キャンプ・ハロウェイ、クイニョンに対する解放戦線による攻撃には言及せずに、日本でそう呼ばれる「北爆」についてしか書いていないのだ。「ペンタゴン・ペーパーズ」と呼ばれることになるロバート・マクナマラの指示によって作成された七千ページに及ぶ資料がダニエル・エルズバーグによって漏洩され、ニューヨーク・タイムズとワシントン・ポストの両紙が一部を掲載したのは一九七一年のことである。ここで触れている研究者たちはこんな資料の存在を知っていて執筆しているのだろうかとさえ疑う。

 

1 Ichihashi Hideo(市橋秀夫)『日本におけるベトナム反戦運動史の一研究―福岡・十の日デモの時代』, 2014-16

2 Kurokawa Iori(黒川伊織)『地域ベ平連研究の現状と課題』