訳文依存の無念さ

 

 言語学者のノーム・チョムスキーは地球上の言語について、

"Imagine an extrahuman observer looking at us. Such an extrahuman observer would be struck by the uniformity of human languages, by the very slight variation from one language to another, and by the remarkable respects in which all languages are the same.1"

"We have very strong reasons to believe that all possible human languages are very similar; a Martian scientist observing humans might conclude that there is just a single language with minor variants.2"

とさえ言う。そして、編纂作業が開始された当初は二年以内の、そして二十年後には、オックスフォード大学との契約が完了した時点から十年以内の完成が予期されていながら、第一版の出版までに作業開始から数えて実に七十年を要した「Oxford English Dictionary (OED)」の編纂に関わった数千人の無報酬協力者の一人だったジェームズ・プラットは、

"... the first twelve tongues were always the most difficult, but having mastered them, the following hundred should not pose too much of a problem.3"

とまで言ったらしい。

 日本語である津軽弁と鹿児島弁ほどの差異もないのに、別言語として認識されていることが不思議なほどそっくりな、どちらもマレー人の言語であるマレー語とインドネシア語のような通訳不要の例外はある。それほどではないにしても、インド・ヨーロッパ語間など、かなりの類似性が見られる言語もある。そうは言っても、ほとんどの異言語間理解には通訳を必要とするのが地球人の現実。残念ながら地球語という呼称でまとめられる言語は今のところ存在していない。火星人が考えるかもしれない以上に地球語の多様性は大きいし、プラットの言辞については、母語の習得にさえ苦労している凡人としては信じがたいことである。

 未だにして、日本語と英語でしか読む能力がないことをまったく残念に思う。ドストエフスキーやトルストイの小説、またベトナム文学などは英訳に頼らないといけない。和訳ではなくて英訳で読むのは、類似性が強くはないとは言っても、ロシア語は言語構造的に日本語より英語に近いに違いないという考えからである。ベトナム語についてもそのように思う。同じ理由から朝鮮語なら和訳で読むだろう。文学的または学問的な嗜好の好悪はともかくとして、英米文学、ロシア文学、ベトナム文学、またベトナム戦争を記録したアメリカ人記者たちの著作を日本語訳で読みたいと思ったことは一瞬たりともない。

 ドストエフスキーやトルストイは帝政ロシア時代の貴族階級の会話を当時そうであったようにフランス語で表しているが、日本語訳では一体どう扱っているのだろう。また、ジェームズ・ジョイスは英語での作品の中にアイルランド語を用いたりしている(らしい)が、この差を日本語でどこまで表現できるのだろうか。日本語訳版を(読めばではなく)見ればわかることだが、見てしまうと和文に影響されてしまいそうなので見ないことにしている。

 

1 Chomsky, Noam. Language as a Key to Human Nature and Society, 1983 (Language and Politics, Expanded Second Edition, 2004, AK Press, p.370)

2 Chomsky, Noam. Anarchism, Marxism and Hope for the Future, 1995 (Chomsky on Anarchism, 2005, AK Press, p.185)

3 Winchester, Simon. The Meaning of Everything: The Story of the Oxford English Dictionary (Oxford University Press, 2003) p.211