中国はアヘン戦争の恨みを良く口にしますが、中国大陸の歴史は侵略の歴史でもあることは史実から良く分かります。近年の南シナ海における一方的な支配もその一つです。

そこで、今回は日本が中国大陸を支配していた元朝から一方的に攻め込まれた、元寇について伺ってみました。

 

元寇は、1274年と1281年にモンゴル帝国の元朝が日本(北部九州)に侵攻した戦いです。

1度目を文永の役、2度目が弘安の役といいます。

この戦いでは、何れも日本の勝利で終わっていますが、残念ながら多くの地元の民が犠牲になっています。

 

1度目の文永の役では、元側の武器や戦術の方が勝っていて、日本側は博多湾から太宰府付近まで兵を下げていましたが、何故か上陸した元の兵が一夜にして海上へと引き上げ、翌朝には暴風で元側は大きな被害を受け大陸へと引き上げています。

 

2度目の弘安の役では、鎌倉幕府も力を入れ十分に備えていたこともあり、日本側は、40万とも謂われる元兵と良く戦っていた様です。結局、台風による元側の被害が大きく大陸へと引き上げています。

 

これらの戦いについて神様に伺うと、1度目の文永の役では、日本側が苦戦していたので、地元の神々23柱が地元の若者に憑依して、白衣を着せ白光を放ちならが、矢を以って敵将を射抜いた事で恐れを成して海上へ退散させたそうです。また、海上では不思議な炎と共に1万トン級の軍艦の幻影を見せたため恐れおののき沖へ逃げたが、そこへ35m/秒を超える暴風を浴びせたので殆どの船は沈み、残った船もやっとのことで退散したとのことでした。

 

また、2度目の弘安の役では、日本側が良く戦っていたので見ていたが、神様が台風を博多方面へ向けたために元側の船の殆どが沈み退散したということでした。

 

何れも神様の仕業とのことでしたが、余計な被害は出したくないとのことで、主体を沈めたが、弘安の役の様に佐賀県以西の敵船には被害が最小限で済むよう差配したと言われていました。

 

やはり、元寇の大風や台風は神風だった様です。