1977.11/19サダト・エジプト大統領のイスラエル訪問 | わかったできたの笑顔がやる気スイッチを押すこじんまりしたこじま塾。

わかったできたの笑顔がやる気スイッチを押すこじんまりしたこじま塾。

府中市分倍河原のこじま塾という個別指導の学習塾で日々教えてます。高校の勉強、小中一貫生、単科生にも対応します。hpもあります。都立入試問題解説など受験に役立つ情報満載。数学の問題なのに国語も勉強できたり。読む力、書く力はすべての科目に通ず。

 

 

イスラエルとパレスチナ立山良司著で考える⑪
過去四回に渡って戦争した相手、いわば宿敵エジプトの大統領の電撃訪問。しかし、直接交渉についての暗黙の了解は1973年の第四次中東戦争直後から行われていた。
1974から75米国キッシンジャー国務長官の往復外交の成果もありエジプトとイスラエル、シリアとイスラエルそれぞれの間で兵力引き離し協定が成立、第三次中東戦争以来閉鎖されていたスエズ運河が75,6月再開した。その後の和平交渉は遅々としたものだったが、77年カーター政権が誕生。中東和平問題の包括的な解決策を探っていたがサダトはもっと劇的なショック療法のようなものが必要と考えた。それがイスラエル訪問だった。
サダトのイスラエル訪問によりエジプトとイスラエル両国間の和平が達成。
ただこれは両国間の単独和平であり、パレスチナ人の問題を含む包括的な和平を生み出すまでにはいたらない。

キャンプデービッド合意成立
1978,9/5-18米メリーランド州の大統領山荘で開かれたカーター大統領、サダト・エジプト大統領、ベギン・イスラエル首相の三者会談は中東和平をなんとか実現したいと願うカーター大統領の政治的な賭けだったと言えるが、先年のイスラエル訪問での「和平」に対する考えは大きな開きがあった。
サダトはイスラエル軍がシナイ半島から全面撤退しそこに住むパレスチナ人が一定の過渡期間終了後、自分達の意思で決定する機会が与えられるべきと主張。
一方のベギンはシナイ半島からの全面撤退、エジプトと単独講和を結ぶことには原則的に同意したが、統一エルサレムは永久にイスラエルの首都であるとして分割には絶対反対。また過渡期間後のヨルダン川西岸、ガザ地区を関係当事者の合意によって決定するべきでパレスチナ住民のみが決定権を握っているのではないと主張した。
両者の見解は縮まることはなく、さらに78,3月にテルアビブ近郊でユダヤ人の乗った路線バスがパレスチナゲリラに乗っ取られる事件が起きる。イスラエルは報復として南レバノンに大量の軍を侵攻させた。(リタニ作戦)
これにアラブ諸国は猛反発し、ただでさえPLOやシリアなどアラブ強硬派諸国から「イスラエルに対する敗北主義者」と非難されていたサダトは一時和平への動きを中断せざるを得なくなった。
この行き詰まりを打開するためにカーターが考えたのがキャンプデービッドでの合宿首脳会談であったのだ。カーターの回顧録によれば会談中もふたりの見解は大きく食い違い、一時両者は直接会談することさえ拒否したが13日目の9/17にやっと合意が成立、三首脳によって調印された。
キャンプデービッド合意はエジプトとイスラエル首脳が両国間の平和条約のあり方、さらにヨルダン川西岸、ガザ地区の将来について合意したという意味で歴史的な文書である。しかし、合意成立を第一目標としたため中東和平のための枠組みははあいまいな点が多く、基本的な問題については強硬な姿勢を崩さないベギンの主張に近いものとなった。

とはいえ、今のガザ地区への攻撃をみるとまずひとつの場所に集まって和平について会談するというだけでもすごい。バイデン大統領はおりしもカーターと同じ民主党である。

報道ステーションの大越キャスターのクリスマス期間の現地取材。ガザ地区よりは比較的安全というヨルダン川西岸から中継も防弾チョッキを着用してのもので砲声を聞くことも度々だったと大越キャスター。その中でもパレスチナ難民の人だけでなくイスラエルでの取材でも心を痛めているイスラエルの人もいる。そうした心のつながりが届くことを祈るばかりである。