イスラエルとパレスチナ(立山良司)でパレスチナ問題を勉強中③ | わかったできたの笑顔がやる気スイッチを押すこじんまりしたこじま塾。

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府中市分倍河原のこじま塾という個別指導の学習塾で日々教えてます。高校の勉強、小中一貫生、単科生にも対応します。hpもあります。都立入試問題解説など受験に役立つ情報満載。数学の問題なのに国語も勉強できたり。読む力、書く力はすべての科目に通ず。

 

 

深まるコミュニティの対立
「約束の地」への帰還のなのもとに1901年、「パレスチナの土地購入機関として「ユダヤ民族基金」を設立、世界各地のユダヤ人からの寄付金や会費が土地の購入資金にあてられた。」
第一次世界大戦終了後パレスチナ委任統治が始まった1922年ではパレスチナには75万人が住んでいた。19世紀末以降始まった移民はこの基金やパルファン宣言をもとに八万人に及ぶ。しかし他の大多数はアラブ住人が占めていた。
そこに「1920年から1935年の間にパレスチナに流入したユダヤ資本の総額は約9000万ポンド。これは同じ時期の英委任統治庁の支出総額のほぼ3倍にあたる」。そしてその多くが土地の購入や産業開発に向けられた結果、例えば地中海沿いの地価は10年間で3、4倍に跳ね上がった。地価の高騰、それにともなう農地の売却はパレスチナ人の小作人や小規模農家をを離農へと追い込んだ。年に流れ込んで賃金労働者となったがそこでもユダヤ人労働者との賃金格差に直面する。

その後の第二次世界大戦、そしてイスラエル建国以前にそうした双方の不満の鬱積、対立の背景があった。
あまりそうした知識がないままだったので問題の根深さをあらためて感じます。