イスラエルとパレスチナ(立山良司著)からパレスチナ問題を勉強してみます。② | わかったできたの笑顔がやる気スイッチを押すこじんまりしたこじま塾。

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第一次世界大戦でのイギリスの3つの矛盾する約束
英国、フランスでドイツ・オーストリア側のオスマントルコ帝国領の東アラブ地方を分割することが盛り込まれたサイクス(英)ピコ(仏)条約(戦争が始まって2年経った1916年5月)

その一方で英国側カイロ高等弁務官マクマホンはメッカの太守フセインには戦後東アラブ地方にアラブ独立王国を作るとの約束を与えていた。(フセインマクマホン書簡)
これによってフセインは積極的に英国への協力を申し出るとともにトルコに対する反乱を計画した。サイクス・マクマホン条約を知らないまま。(1916年アラブの反乱)

このへんがアラビアのロレンスですか。アラブの人たちと協力して戦いながら、英国政府との板挟みで苦悩していたようすがあらためて思い出されます。

そして、ちょうど同じころマンチェスター大学のワイツマンらがロスチャイルド卿ら有力支援者とともにユダヤ人国家建設についての運動を英国政府に対して行っていた。
「戦後パレスチナに親英親西欧的ユダヤ人国家ができればスエズ運河に対する東アジア方面からの脅威に対する有効な障壁となる」という主張に、英国外相パルファムはロスチャイルド卿に「英国政府はパレスチナにユダヤ人のナショナルホームを設立することを支持し、この目標達成のために最善の努力を行う」と記した手紙を送る。(1917年11/2パルファム宣言)

それぞれがあい矛盾する3つの約束は当然破綻する。


1917年12月エジプトパレスチナ方面英国軍司令官がアレンビーがエルサレムに入城。1918年11月、ドイツの降伏で第一次世界大戦が終わる。
ワイツマンら英国のシオニストは国際連盟に委任統治されたパレスチナ北部をパルファン宣言に基づいたものになるように運動していた。

そうした動きをアラブの反乱の中心になったフセインも黙って見ていない。
フセインの三男ファイサルは1918年トルコ軍を負かしてダマスカスに入城し、アラブ政府樹立を宣言する。
しかし、これは英仏間のサイクス・ピコ条約に矛盾する。この地域を支配下に組み入れようとするフランスはダマスカスに進軍、ファイサルを追放した。
それを聞いた次兄アブドッラーがアラビア半島からシリアへ軍を進め1921年3月には現在のヨルダンの首都アンマンへ入った。

ここで英国の植民地相チャーチル(後の首相)が英統治領となったパレスチナの東半分(ヨルダン川以東)をアブドッラ―に与えることでシリア進軍を思いとどまらせる妥協案を提案する。

こうして1921年4月、パレスチナの東半分はトランス・ヨルダン首長国となりアブドッラーは初代首長(アミール)に。1922年国際連盟理事会が採択し、現在パレスチナと呼ばれる地域の境界が確定された。過去の歴史とはほとんど無関係に人工的に。
「このためパレスチナの領域をめぐって、その後もアラブ、ユダヤ双方で果てしない論争が繰り返されている」(そして戦争が)

もとはと言えばどちらにもいい顔をしようとした矛盾した約束が今も続いているんだな、と思うと歴史を学んで初めてわかることでした。さらに続きを読みながらイスラエル建国からパレスチナ難民、4度の中東戦争、そして現在のイスラエルとハマスの戦争について考える糧としたいと思います。
(立山良司著イスラエルとパレスチナ参照)