_『2018栃木デスティネーションキャンペーン展開記念◯「江戸期の下野国1」~「黒羽藩益子領」』 _①栃木県芳賀郡益子は、中世戦国時代には名門武士の益子一門が拠点にしていたところで、当時築かれたであろう「益子古城址」や、古刹の西明寺など、多くの遺構が残る歴史街です。 _◯⇒画像1~6枚目 _②江戸時代の益子を支配していたのは、下野国の那須郡で、黒羽城を拠点として2万石を領有していた小大名・黒羽藩主大関家でした。 _◯⇒画像7枚目 _③黒羽藩の領域は、那須郡の「上の庄」1.6万石と「下の庄」4千石に別れていて、現在の芳賀郡益子町は「下の庄」にありました。 _◯⇒画像7枚目 _④黒羽藩は、小藩であるのに加えて、財源を潤すための、有効な産物や産業に乏しいのが実情でした。 _⑤そんな黒羽藩の治世下の江戸時代初期に益子領で起きたのが、義民「藤根善治」に関わる騒擾でした。 _◯⇒画像8~10枚目 _⑥江戸時代の徳川幕府は、大名や旗本領内の百姓一揆や騒擾を、「家中取締不行届」としてお家取潰しの口実としていました。 _⑦そのため大名や旗本は、自領における不都合事案の発覚を恐れて、隠蔽や口封じを行って自領の統治の安寧を装いました。 _⑧黒羽藩益子領内でも、それは例外ではありませんでした。 _⑨ちなみに、黒羽藩益子領で益子焼が産物化されて藩財政の潤いに寄与するのには、実に幕末まで待たなければなりませんでした。 以_上

桜吹雪の金四郎196907さん(@sakura_hubuki196907)がシェアした投稿 -