貼り付けてみました。


3.11   ←チョン、と触ってね。
皆様の クリックで 復興のお手伝い❤️





あれから8年経ったのだけど
あのときの 防災意識が
まだ、100パーセントで
持続してる訳ではないけどね




耐震構造マンションは
揺れを増長するのです。
想像以上に モノが落ち、
割れまくって
いろいろ危険だと考えさせられました。






2011年 3月11日
横浜の中学生になっていたムスメは
学年末テスト最終日
テストが終わった開放感で
楽しい テニス部の部活で
汗をかいているところで
あの揺れに遭遇。




テニスコートで 立ってられない揺れに
みんなで 四つん這いになって
泣き叫んだそうです。
「主よ!」← ホントかな




東京湾
横浜市沿岸部にも大津波警報が出て
高い丘の上にある ムスメの学校は
校内や 学校施設内にいた全生徒を
一晩、安全に預かってくれました。




学校は、ホームページを
続々と更新して
預かっている 生徒の出席番号も
知らせてくれて
無事に ごはんも 毛布や寝袋も
あるのを確認できました。




私立の学校は広域から
生徒を集めているので、
生徒のフォローや、保護者への配慮
手厚さが ポイントになります。




ほ、ん、と、に
この学校で良かった、と思いました。




翌日、担任から 帰宅ルートの確認と
「では、帰宅させます。」の電話で
途中駅まで ムスメを迎えに行きました。




「%#*$€•£#+<$£# !!! 」
↑ 車🚗の中、ムスメは 興奮していて
   長い一日のことを ペラペラ☆と
   しゃべっていたよ💨




離れて不安だったけど
安心しました。
 





オットは当時、ペルーだか
メキシコだか そのあたりに出張していて




ペルーにいるはずと思って
ペルー時間の朝に 電話したら
真夜中のメキシコにいて。滝汗




これまた、外国から 震災後の成田に
飛ぶと言ってくれる 航空会社が
なかなか少なくて
緊急帰国のつもりが
オットが帰れたのは4日後でした。




当時、小学3年生だったムスコくんは
小学校の「総合」の授業で
育ててきた大豆から お豆腐を作る
調理実習があるんだと、
楽しみにしていたのに




今思うと アタマに 地震探知機が
着いているのか わからないけどニヤニヤ
アタマが割れそうに痛いと言って
学校を休んでいました。
当時、というか地震当日
異様な頭痛を訴えていた人が
多かったと 都市伝説になってます。
↑  Aikoリサーチでした。




私が仕事から帰って少しして
あの 私史上 最大の揺れが!
以来、ムスコは
ダイニングテーブル下の住民に
なりました。
 ↑  怖くて出て来なくなったのよニヤニヤ💨




食器棚の マグネットで閉まる扉が
揺れや歪みで 簡単に全開しました。




真ん中より上段の食器は
皆、落ちました。
飾り棚の モノも 重い物ほど
落ちて 飛び散りました。




家の中は 地震の揺れに任せて
危険な飛び道具だらけ。




震災後、割とすぐに
食器棚は背を低くして
地震対策しました。




高い所に重い 飾りか 瓶や 陶磁器は
置かないようにしました。




キャスター付きの家具は
揺れに翻弄されるけど
転倒はしませんでした。




薄型テレビが テレビ台から
落ちるので
転倒防止のジェルを使ってます。




枕元には、今も
懐中電灯を スタンバイしてます。
ムスコは キャンプ用の
LEDランタンを。




ライフラインは止まっても
止まらなくても
スーパーの棚が パニックで
空っぽになるので
最低3日くらいの 飲み食いの物資は
あると良いのかな。






ホントは 8年経ったのに
すごく大変な 地域もあるのに
復興が進んでるのか?
なのに、たくさんの人がまだ避難生活を
されていて




よく揺れた、怖かった、の
自身の記録を残してどうする?って
いう部分も 多々感じたのだけど




被災地から何百キロもあっても
こんな 思うことがあったという
記録として、書きました。






3.11は 日頃忘れてる意識を
みんなに思い出させる日。





では〜〜。