コイカイコのカイコ補遺版その193:HIDE、狂乱、スティーヴン・キング
2009/1/3
コイカイコのカイコ(恋かいこの回顧)補遺版その193:1月3日
★HIDE 『生き溺れても また春に会いましょう』
今日 2009/1/3
http://jp.youtube.com/watch?v=G0-bii9A7u4 : 『HURRY GO ROUND』のプロモーション・ビデオ
「生き溺れて」いたような日々から、ほんの少しだけだけど解放されたような気がする。
そして、また春が来て、またHIDEとこうして再会できた。
★HIDE ”Ja、Zoo”
10年前の今日 1999/1/3
この3日間、一日中ずうっとテレビがついていてくたびれた。
テレビから離れたくて、夜9時近くに家を出て近くのモスバーガーに入ってHIDEの”Ja、Zoo”を聴きながらノート
書き。
急ぎ 廻れ 砕けても
果敢無(はかな)く散るが故にも
今を待たずに
まわれ Hurry merry-go-round
生き溺れても
また春に会いましょう
春に会いましょう
春に会いましょう
――― ”HURRY GO ROUND”より
優しく雨は 君をつつみあげ
やがて空へ昇り
雪色の雲 桜色に染め
君は流されゆく
終わり無き 空の下で
自由という カゴの中で
――― ”PINK CLOUD ASSEMBLY”より
「自由というカゴの中で」。
こういう表現はHIDEが詩人であった証(あかし)である。
詩人は「自由というもの」からも自由であろうとする。
詩人というのはそういう人たちなんだって、”PINK CLOUD ASSEMBLY”を聴くとそう思う。
詩とは、そういうふうに「自由というもの」からも自由でいようとした人たちの軌跡なのだろう。
★狂乱 『羽根をください』
14年前の今日 1995/1/3
その人を理解すること。
「その人」を何かとくらべたり、何かにたとえたりすることなく、「その人」そのものを唯一無二の存在として理解
すること。
画家オディロン・ルドンのいう、
「すべてを理解することは、すべてを愛することだ」
に近づいていくこと。
間章(あいだ・あきら)は、
「十九世紀には千人のランボーがいた。そして百人のボードレールがいた。一万人のヴェルレーヌ
がいた。しかし二十世紀には、その百人は千人は一万人は詩人になどならないし、ロッカーや暴走
族になるだろう」
と書いているが、私は狂乱に触発されて去年9月に、「a.a.Dynasty」を出して、そのあとがきに、この間章の
文章を借りて、
「詩人になどならずにロッカーになった二十世紀のボードレールやランボーが、ライブハウスで、路上
で、巨大な声に加担された詩を歌い、社会の軋(きし)みを聴かせている」
と書いた。
それは狂乱のジュンや英郎をボードレールやランボーにたとえるのではなく、それぞれが唯一無二の個であ
るということを記(しる)したいという思いからだった。
その人たちの「すべてを理解し、すべてを愛する」のに、ボードレールもランボーも知識(し)っている必要は
まるでない。
なまじっか知識っていることは、かえって「すべてを理解し、すべてを愛する」ことのジャマになる。
ボードレールやランボーは知られているから価値があるわけではなく、ボードレールでありランボーであった
から価値があるのだ。
「オマエと俺を比べるな
比べて生まれるものなんかろくなものはありはしないから
むかつく感情をくれるな」
――― 『羽根をください』より
★スティーヴン・キング 『IT』
17年前の今日 1992/1/3
「―― そして母はこの国のロックンロールはいずれ消え去る運命にあるとかたく信じていた。
(中略)
フランキー・フォードが<シー・クールズ>を歌うとき、エディ・コクランが<サマータイム・ブルー
ス>を歌うとき、リッチィはほんとうにうれしくて胸がわくわくする。あの音楽にはパワーがある、や
せっぽっちの子供、でぶの子供、醜い子供、はにかみ屋の子供、―― 要するに世界じゅうのはみ
だしっ子にあたえるパワーだ。あの音楽には、ビンビンしたパワーがあって舞いあがりそうなボル
テージを感じる。
(中略)
いつの日か大好きなロックンロールを思う存分聞けるときがくるだろう ―― 母があきらめるころに
もロックはまだちゃんと存在しているという自信があった」
――― 『IT』(上巻)P.576~577