今回の安倍元首相の国葬を巡って、市民団体のメンバーらが差し止めを求めた仮処分申請について、最高裁判所第1小法廷(堺徹裁判長)は、9月22日付で、市民団体側の特別抗告を棄却する決定を出した。差し止めを認めなかった東京地裁、東京高裁の判断が確定した。小法廷は「特別抗告の理由に当たらない」とだけ述べた。裁判官5人全員の一致の意見。市民団体側は、国葬の実施は、国民に弔いの儀式を強制し「思想・良心の自由」を保障した憲法第19条に反すると訴えた。 これに対し、地裁は8月2日付で「国葬の実施により個々の国民に弔意を表することを強制するとは認められない。国葬に公金が支出されても、思想・良心の自由を侵害するとは言えない」として、申し立てを却下する決定を出した。高裁は、同29日付で、地裁決定を支持していた。(毎日新聞 令和4年9月26日より引用。)

 

 今回の安倍元首相の国葬は、明らかに憲法違反である。なぜならば、国民の税金として集めた国家予算からの支出によって、安倍元首相の国葬は執り行われることが、内閣の閣議決定のみであったことが、憲法違反に該当するのだ。

 

 つまり、今回の国葬の予算については、内閣が国家予算の私物化を行い、内閣だけの身勝手な判断によって、国家予算の違憲・違法な行使を行なったことになる。

 

 日本国憲法第41条【国会の地位・立法権】において、このように定められている。

 

「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である。」つまり、今回の安倍元首相の国葬は、国会の審議を全く得ずに、実施されたため違憲である。  

 

 つまり、国権の最高機関である、国会の決定を得ずして、国家予算を行使して、国家行事として内閣だけの閣議決定で、安倍元首相の国葬議を行なったことは、民主国家の決定事項であるとは、断じて言えないただの愚行に過ぎない行為である。

 

 こんなことが許されるのであれば、内閣の決定だけで国を動かすことも可能になる、民主主義の破壊行為であるとはっきり言えるであろう。つまり、この日本が民主制国家ではなく、既に独裁制国家にされていることになる事実である。

 

 国の予算を用いて、国の行事として、国葬を執り行う場合、国の最高機関の決定無くして、予算を用いることはできないはずである。それを内閣の決定だけで、予備費という内閣が予見し難い予算の不足に充てるために用意された予備費を堂々と用いて国葬を執り行ったことが、憲法違反に該当するのである。この行為が内閣の責任になるのであれば、日本国憲法第66条に基づき、すぐに、国会を解散しなくてはならないはずである。

 

 もし、今回のような形で、内閣だけの決定で、国の予算を勝手に使うことが許されるのであれば、国の予算は、内閣であれば、何にでも使って良いことになってしまう。それこそ、内閣の国家予算の私物化である。そして、国家予算の私的流用も許されることになるのだ。

 

 それを認めた最高裁の判断は、明らかに誤判断だと言わざるをえない。

 

 そして、このような形で、今後も最高裁判所の今回の決定が、判例法となって、内閣が、国葬を決定すれば、どんな人の国葬でも行えることになってしまうのだ。

 

 こんなおかしな判断を最高裁が行なっていること自体が、明らかに、日本が、自民党・公明党による独裁国家とされていると思わざるを得ない、重大な日本国家の危機的な事態である。

 

 そして、最高裁判所のこんな判断が許されるのであれば、国家公務員は全員、最低賃金にまで減給するのが、私はふさわしいと思わざるを得ないが、皆さんは今回の最高裁の決定についてどのように思うのであろうか?

 

 私自身はこのように思います。

 

 内閣の行う行事の予算に、予備費を用いていいという憲法や法の定めは一切ありません。予備費というのは、内閣が事務を行うにあたって不足の事態を招いた場合に充てるために予算として日本国憲法に基づいて計上されているのです。つまり、国の行事のための費用として使っていいとも憲法や法には全く記載がありません。つまり、内閣が身勝手な判断で予備費を使うことは決して許される行為ではありません。あくまでも予備費は不足の事態に充てるための内閣の予算なのです。また内閣設置法自体も、内閣独自の予算行使を認めている法律ではないと思いますが、今回の国葬の実施においては初めから予備費を用いる算段で国葬が執り行われたことは明白な事実です。何故なら、内閣が内閣の判断で行使できる予算は予備費しかないためです。そして、今回の国葬の実施は閣議決定のみで執り行われました。しかし、国会の判断を全く仰がないで、もしそれを内閣がやったとしたら、内閣はその責任を取って、日本国憲法第66条の規定に基づいて国会を解散しなければならないことになります。それは、内閣の閣議決定のみで今回の国葬は執り行われたのですから当然のことです。