Side−A
夕暮れ時に一人で訪れた千葉の海は、時折強い波が打ち寄せている。
此処には特別な想い出がある。
翔ちゃんとの、特別な想い出だ。
陽が沈み、辺りが暗くなり、此処に居るのは俺だけだ。
響き渡る波の音に、心はあの日のままでいられたらと、そればかりが頭を過る。
「…雅紀」
まさかと思った。俺の名前を、そう呼ぶのはこの世に唯一人…
「翔ちゃん…どうして?」
「記念日だからに決まってるだろ?」
「でも…翔ちゃんは…」
「此処に来る筈がない、とでも言うつもり?」
「だって…」
「あんまり分からないことを言うと、その口を黙らせるぞ?」
「…忘れてると、思ってたから」
「忘れるわけ、ないだろ?」
「しょおちゃ…ん」
『ちゅ…』
潮の匂いが少しずつ消えていき、波の音が大きくなった。
「土用波だな…」
「土用波?」
「この時期、特有の波だよ。波打ち際に居たら、足元を掬われて、あっと言う間に沖に攫われてしまうんだ」
「…攫われてしまうの?」
「…うん」
「俺…翔ちゃんとなら…攫われても構わない」
いっその事、翔ちゃんと2人、攫われてしまいたい…
あの日の俺たちを、海の向こうに閉じ込めてしまいたい…
「いいよ?オレも、雅紀となら土用波に攫われても構わない」
翔ちゃんの、俺を抱きしめていた力が強くなって、俺は泣きそうになった。
「雅紀…?」
「なんで…そんなこと、言うの?」
「好きだからに決まってるだろ?」
「…しょお…ちゃ…」
「何度だって言う。オレは、雅紀が好きだ。これからも、ずっと…」
「…うん」
今はこの気持ちだけを土用波に乗せて、海の向こうに沈めよう…
この先もずっと、今日の事を忘れないためにも…
…FIN