カナは俺を玄関口に入れるなり抱き着いて来た。
「なあ、エッチしよ」
彼女は、少しでも恐怖から逃れるかのように、細い身体をベッドの上でくねらせながら情事に没頭していた。かくいう俺も、今日は命まで狙われたので、まるで己の生存本能を試すかのように励んだ。
やがて、互いに果て合うと、カナは裸のまま眠ってしまった。俺は彼女の身体に布団を掛けてやると、ベッドから起き出し、ソファに座ってキャメルに火を点け、こんどのヤマをもう一度頭の中で整理してみた。
ミエはどうしてUSBメモリを忘れたという客を探していたのだろうか。そもそも、そのUSBメモリには何が入っていたのだろうか。そこに思いを巡らせていた。
「待てよ、USBメモリは客が忘れたんやのうて、ミエが脅迫のネタとして準備したもんやとしたら…」
そうすれば話のつじつまが合ってくる。ミエは一度対象となる人物と接触し、検察に持っていけるような、すみれ銀行、またはすみれリアルエステートにとって不利な、しかも決定的な情報を持っていると脅した。すると対象はミエの脅迫に応じるフリを見せ、次に会った時にその情報と金を交換すると約束したが、ミエはその人物がどこの誰であるかを事前に知ろうとして、俺に捜索を依頼しのではないか。ミエなら、それくらいの機転が利いてもおかしくはない。ただ、脅迫そのものはミエの単独ではなく、誰かが裏で糸を引いていた人物がいるはずだ。ミエ一人で取引するには危険が大きすぎる。
「問題は、裏で糸を引いていた人物は誰か?やなぁ」
そう呟いたとき、カナが目を覚ました。
ベッドの上で同じ煙草を回し吸いした。
「お腹減ったやろ? 寿司あるから食べぇ」
「ありがとう」
カナはベッドを出るとバスローブを纏い、ダイニングの椅子に腰を下ろした。
「ミエちゃん殺した犯人、捕まるかなぁ」
カナは寿司をつまみながら、小声で言った。
「警察が捕まえんでも、この俺が絶対に犯人挙げたるわ」
「いくら探偵さんでも、殺人犯捕まえるのは無理なん違う?」
店の女の子たちには、妙に警戒されるといけないので、俺が元警官だということは伏せていた。俺は服を着て、冷蔵庫からビールの缶を取り出すと、カナの前に座り、栓を開けた。
「カナはミエちゃんと話したことある?」
「あるよ」
「どんな話したん?」
「別に……。服とか化粧とか、食べ物とか……。そんな他愛もない話よ」
仕事の終わる時間がいっしょになって、二人して事務所でその日のギャラをもらう時に顔を合わせる程度だからとカナは言った。どちらも売れっ子の嬢だから、その程度の面識しかないことは致し方ない。
「今回の事件で、何か思いあたる節とかないかなぁ?」
「そう言われてもなぁ」
これ以上カナからは何も訊けそうになかったので、俺は部屋を出ることにした。彼女は朝までいてくれと頼んだが、一緒にいれば巻き添えを食いかねないので、俺は辞退した。
「明日の晩もエッチしよう。しばらく仕事行かれへんから暇やねん」
返事のかわりに、俺はカナの唇に軽くキスをして部屋を出た。
俺はタクシーで自分のマンションへ戻ると、鍵を出してドアの前に立った。仕掛けた煙草の箱の切れ端が床に落ちていた。俺はそっと扉を開け、中に入った。明かりは点けずに、持っていたミニマグライトを灯すと、中は者が散乱していた。部屋のスイッチを入れた途端に、隣のトイレに隠れていた男がナイフを持って飛び出してきやがった。俺はお見通しだったので、マグライトをニンジャスティックがわりにして、男の顔面を思い切り殴り飛ばした。すると男はその場でぶっ倒れた。こんどは隣の部屋に隠れていた男が俺に飛びかかった。その場で倒れそうになるのを必死でこらえ、右手で払いのけるように男を突き飛ばした。ダイニングテーブルに突っ伏した男は体勢を立て直し、ナイフを取り出すと俺の前でファイティングポーズを取った。俺は台所に吊るしていたフライパンを持って、応戦の構えを見せた。振り下ろされたナイフをフライパンで払い除けながら、俺はローキックで男の膝を思い切り蹴り飛ばした。「うっ」っと男が呻きしゃがんだ途端に、今度は二段蹴りで顔面を思い切り蹴り飛ばしてやった。男は部屋の向こう側まで飛び、ベランダのガラスに頭を突っ込んで倒れた。俺が男のところへ歩み寄ろうとした瞬間、うなじに鉄の冷たい感触が押し付けられた。
「動くな」
押し付けられている面積からして、それは銃口のようだった。男二人と格闘している間に、別の奴らがドアから入ってきたらしい。俺は手を上げてその場で立ち止まった。
「さすがは元刑事さんだな」
銃を向けた男が落ち着き払った口調で言うと、別の男たちが素早く俺を後ろ手に縛った。
「瑞枝が持ってたUSBメモリはどこにある?」
「知らん!」
男はミエの本名を言った。俺が突っぱねると、男は銃口をさらに押し付けた。
「ホンマに知らん! こっちもあれこれ探してるところや。警察はUSBメモリの存在すらまだつかんでない!」
押し付けていた力が弱まった。男は俺の言葉を信じたようだった。
「本来なら、今夜ここでUSBメモリを奪い返したら君を殺すつもりだったんだよ。しかしUSBメモリが見つかっていないのなら、それは時期尚早のようだな」
俺のうなじから銃口の冷たい感触が離れた。しかしまだ俺のほうに銃口が向いていることは間違いあるまい。
「おまえら、ミエとどういう関係やったんや? キヨシさんを殺したのもお前らの仕業やな」
「キヨシさん……、ああ、あのタクシー運転手のことか。彼には私たちの顔を見られていたんでねぇ。君も無理に振り向こうとすれば、その場で殺す。こちらには銃が人数分だけあるのでねぇ」
銃を向けているのと別の男が覆面をして俺の前方に回り込んで銃を向けた。ドイツの銃器メーカー、ヘッケラーアンドコック社のUSPのようだった。別名P8。元々はH&K社がアメリカへの市場開拓を狙い、.40S&W弾が使用できるよう開発されたものであるが、同じアメリカで根強い人気を誇る.45ACP弾にも応用できるよう、ひと回り大きなフレームを使っている。特に遊底部分の幅を大きく取っているのが特徴的だ。このUSPはドイツの警察、軍隊の正式拳銃として採用されているが、まさかこの連中がドイツ連邦情報局のヒューミントに属しているとは考えにくい。最も、欧州の斜陽工業国が、自国の起死回生を図るため日本のメガバンクに肩入れしているとも考えられなくはない。だがその可能性は限りなくゼロに近い。おそらく奴らが使用しているUSPは、アメリカからの密輸入か、はたまた東側諸国か中近東あたりのルートから流れてきた代物だろう。覆面男は、相打ちにならないよう斜めから銃を向けていた。彼らもプロのようだった。
「で、他に俺を生かしておく条件はなんや?」
「瑞枝殺害の犯人を捜さないこと。つまり私たちの正体を詮索しないことだな。それとUSBメモリを君が見つけ出すことだ」
「見つけたら中身を見ず、すぐにおまえらに渡す。そのかわり俺の生命は保証するってか?」
「察しがいいな」
「誰がそんなこと信用するかい!」
また俺のうなじに銃口が押し付けられた。
「君の生命は私たちが握っているんだよ。どうすれば生き長らえる確率が高くなるか、しっかりと考えるんだな」
男の口調はあくまで冷静だった。倒れていた二人の男が自力で立ち上がっていた。
「警察がUSBメモリの存在を知れば、おまえらも危なくなるんやぞ!」
俺がそう言うと、男は笑った。
「警察なんか怖くないさ。君が見つけたUSBメモリを警察に渡しても、私たちはきっと手に入れるさ」
男がそこまで言うと、うなじにいきなり衝撃が走った。きっと男が銃把で殴ったのだろうと勘づいて、俺は意識を失った。
遠くからパトカーのサイレン音が近づいて来た音で意識が戻った。部屋のそばでその音が消えてしばらくしてドアを叩く音が聞こえた。
「準ちゃん、ワシや!」
源さんの声だった。俺は立ち上がって、ドアを開けた。
「警らで巡回してたら喧嘩の通報が無線に入って、住所確認したら準ちゃんとこやがな。ワシ、慌てて飛んで来たんや。いったい何があったんや?」
パトカーを運転してきた若い巡査に、辺りを巡回して来いと源さんが指示すると、若い巡査は敬礼してまた表に出た。彼の口調は、昔いっしょに捜査していた時のものに変わっていた。彼は俺のせいで捜査畑を外されたといっても過言ではないのだ。それなのに源さんは、いまでも俺のことを心配してくれている。俺は事の顛末を正直に源さんに話した。
「ほんで、今日ここで襲われたっちゅう訳か?」
「ええ」
「準ちゃんもえらいヤマに首突っ込んだもんやなぁ。で、怪我はないか?」
「ええ、現役時代、源さんに本庁の柔道場で、事件が解決する度にしごかれてたおかげですわ」
源さんはあらゆる格闘技に通じていて、柔道や剣道、逮捕術はもちろん、空手や中国拳法、マーシャルアーツなど、さまざまな拳法を教えてくれたのだ。
「しかしチャカまで出されたら、もはや一般市民の準ちゃんでは太刀打ちでけへんやろ。いっそ捜一に任せたらどうや?」
そう進言する源さんに、俺は担当が七係だと告げると、彼は途端に「あーっ」といって眉間に皺を寄せた。
「坪井のアホでは、このヤマは片付かんなぁ。まあとにかく、身体だけは大事にせえよ」
源さんは、通報の件は何とかでっち上げておくから心配するなと言って出て行った。俺は源さんに両手を合わせて応えた。散らかった部屋を見回したが、盗られたものはなさそうだった。今夜はとても片付ける気にはなれなかったので、俺は台所の隅に置いてあるジャックダニエルの大瓶を取り、グラスに並々と注ぐと、それを三分の一ほど一気に飲み干した。IKEAで買ったダイニングテーブルは男が突っ伏した時に足が折れたが、椅子のほうは無事だったので、俺はそこへ腰を下ろし、煙草を吹かしながら、さっきの出来事について反芻してみた。彼らは、昼間出向いた北浜の梶本証券金融に関わりがあるのに間違いはないと直感した。それは、あらゆる事案に首を突っ込んだ刑事の勘という以外に理由は見当たらない。刀鍛冶があとどのくらい鉄を熱し、叩きこめばいい刀ができるという職人技と同じだと、俺は思っている。感情的には明日の朝いちばんにでも梶本証券金融に乗り込み、中にいる連中を締め上げたいのだが、それをするには準備不足だし、今日の明日ではリスクが高すぎた。もし黒幕を聞き出すのに失敗すれば、俺は寿命が尽きるまで生き延びることはできるが、その分連中は二度と現れないだろう。
彼らをおびき出すとなれば、やはり餌が必要だ。目下のところいちばんの餌はUSBメモリだった。俺はグラスにジャックダニエルを足しながら、もう一度ミエが隠しそうな場所を思い返してみた。
「遺留品とヤサは警察が確認してるし、店もガサが入ったんや。残りはミエの会社とその周辺ということになるやろうなぁ」
俺はジャックダニエルをまたグラス半分ほど飲むと、煙草に火を点けた。
「待てよ、殺された時、ミエはUSBメモリを持っていなかったんじゃないか?」
しかし、USBメモリ以外の目的でミエが殺されたとすれば、坪井たち七係がとっくに犯人の目星をつけているはずだ。
「ということは、USBメモリを持たずに目的の人物に会っていた」
その時、俺は別の考えが閃いた。
「そうか!ミエは自分を殺した相手を、USBメモリをネタに強請ってったんや!」
俺はチェーンスモークの合間にウィスキーを飲みながら、殺された日のミエの行動を考えていた。
「直前まで持っていたUSBメモリを、ミエはどこかへ隠した。そうなると、隠し場所はあそこしかないなぁ」
俺は携帯の電話帳から、城東署に電話を掛け、交通課へつないでもらった。
「ああ俺、橋野準。桐ちゃん元気?」
都合よく俺の話したかった相手、現在は城東署交通係に所属する桐谷三郎につながった。
「昨日のタクシーとトラックの衝突事故、事故車両って、まだそっちで保管してるの?」
「ああ、してるでぇ。準ちゃん、またなんや裏でこそこそしてるんやな。もしかして、準ちゃん警察辞めたっての嘘で、ほんまはハムしてるんちゃうの?」
桐谷には、俺が天儀に雇われていることは言っていない。桐谷もずっと交通畑で仕事していた警察官だから、天儀の存在自体耳に入っていない。ただ、彼には昔のよしみで探偵紛いをしていることを以前に話していた。何せ本庁の交通機動隊で五年も同じ釜の飯を食っていたのだ。桐ちゃんは白バイ隊、俺はパトカーと課は違っていたが、警察学校で同期だった俺たちは、現場でも仲がよかった。桐ちゃんも不惑を過ぎて白バイを降り、いまは交通課の課長として警察官の職務を全うしているというわけだ。ハムというのはアマチュア無線のことではない。公安の公の字を分けて読む、警察内部の隠語なのだ。
「俺が公安に呼ばれるタマやないのは、桐ちゃんよお知ってるやろ。それより、事故車両の検分はもう済んでるよなぁ。なんか出て来た?」
「いやあ、たいしたもんは出てないなぁ。それより、ホトケさん、遺体と遺留品の引き取り手がのうて困ってるんや」
「遺族おらんのか?」
「別れた奥さんが仙台、奥さんが連れてった二人の息子がどちらもアメリカとドイツにおるそうやけど、誰もが、もう縁が切れたから言うて、引き取りを拒否してるんや」
渡りに船だ。俺はUSBメモリのことは伏せておいて、キヨシさんと少なからず縁があることを桐ちゃんに告げた。
「そうやったんかぁ。ほたら、準ちゃん引き取ってくれる」
俺は二つ返事でOKした。電話を切ると、今度は天儀に電話し、事の経緯を報告した。
「判った。葬儀社と寺は俺の方から手配しておくから、おまえは遺留品の捜索を頼む」
「判りました」
「それと、おまえに渡したいもんがあるから、すぐにこっちへ来てくれへんか?」
「今からですか?」
まだ左手に付けたままのオメガ・スピードマスターの短針は既に一時を回っていた。俺は電話を切ると歯を磨き、顔を洗って少しでも酔いを醒ましてから、いつものバーへ向かった。
「悪いな、疲れてるとこ」
天儀は、俺が特別室に入るとそう言って人払いをした。
「さっき聞いたナンバー、何も出んかったわ」
ナンバーは盗難車のもので、登録車両は全く別の車種だと天儀は言った。
「梶本証券金融の社長は梶本吾郎、四十二歳。元すみれ銀行の淀屋橋支店で財務課長をしとった男や」
「というと、その梶本も一味という訳ですか?」
俺が天儀に訊ねた。
「残念ながら、そこまでは判らんかった。なんせ数時間前におまえさんから聞いたネタやからなぁ」
俺の慌てぶりを諫めるように天儀はゆっくりと答えた。今日の俺にはいろんな事があったから、きっと興奮しているのだろう。俺は天儀に詫びを言うと、自分自身を落ち着かせるためにソファにどっぷりと持たれて、JTSブラウンを一口煽った。
「来てもろたのは他でもない。これを早う渡しときたかったんや」
天儀は俺に紙袋を手渡した。紙袋はずっしりと重く、中を覗くと、玩具ではない自動式拳銃が一丁入っていた。
「天儀さん、これは……」
俺が驚きの目で天儀を見ると、彼は黙ってうんうんと頷いた。
「こんどのヤマでは既に二人死んでる。おまけにおまえさんまで銃を突き付けられたそうやないか。いま俺にできるのは、それくらいのもんや」
俺は天儀に礼を言うと、中身を取り出した。銃はシグザウエルP226。装弾数がマガジンに十五発、薬室に一発入る構造だ。別にマガジンが二つ添えられていた。全部で四十六発の弾丸を発射できる。アメリカでは制服警官の標準装備だが、日本の警察はSATのような特殊部隊しか装備していない。交番の巡査なら、せいぜいサクラの五発。多くてもSPが持つP220の六発が限界だ。
「連中がUSPなら、おまえさんもこれくらいの銃を持っとかんと太刀打ちでけへんと思うてな。マエはない代物や」
天儀がハバナ産の葉巻を燻らせながら言った。さらに袋の中を見ると、レミントン社の九ミリパラベラム弾がひとケース入っている。ジャミングの少ないフルメタル弾頭だ。俺は天儀に促され、その場で三つのマガジンに弾を込め、そのうちのひとつを銃に装填した。スライドを引いて一発を薬室へ送り込めばもう一発仕込めるが、いまはそこまでのバトルモードではない。俺はいっしょに入っていたアメリカ・ハーネス社製のショルダーホルスターを、上着を脱いで身に着けると、それに銃とマガジンを収めた。
「弾は十分にあるが、おまえさんなら、いまさら射撃練習しなくてもいいだろう。それより、扱いには気をつけてくれよ。絶対に人は殺さへんこと。それに、使うたらアシがつかんように処分すること。それだけは頼むでぇ」
天儀にそう言われ、俺は銃と予備の弾の重みをしっかり肩で感じながら大きく頷いた。天儀は備え付けのインターホンで、ブランデーとウィスキーを持ってくるよう告げた。
「もうひとつ、土産があるんや」
天儀は、手許のグラスを飲み干すと、また葉巻をゆっくりと吹かした。
「今回の殺しのウラで、どうやら特捜が動いてるみたいや」
「地検ですか?」
俺の問いに、天儀はゆっくりと頷いた。ウエイターが酒を持ってきたので、天儀はその先を話すのをしばらく待った。
「動いてたのは、殺しの前や。殺しの後は、特捜の動きがピタッと止まっとるらしいわ」
「ということは、地検はミエを……いや、ミエの客のUSBメモリを忘れた客を追ってたってことですか?」
「そう考えざるを得んなぁ」
俺は、手許に置かれたグラスに残っていたJTSブラウンを一気に飲み干した。USBメモリの中には、いったいどのような物が入っていたというのだ。それに、地検が動いているというのなら、どうして坪井たち七係は未だ変質者の線を追っているのだろう。俺は思いついたことをそのまま天儀に話した。天儀も「うーん」と首を捻るばかりで、珍しく黒幕を見いだせないでいるようだった。
「失礼ですが、そのネタは確かなのですか?」
俺が詰め寄ると、天儀は俺の目を見据え「確かや」と答えた。天儀のコネからすれば、ネタ元は警察内部に違いない。それもかなり上の方だ。天儀自身が警察上層部からガセネタを掴まされることはまずあり得ない。そんなことになれば、天儀は自分の持っている警察の裏情報を公開し、ネタ元を組織から追い出すこともできるはずだ。だとすれば、どうして検察が動いているというネタだけが降りて来て、実際の現場ではそのように動かないのか不思議でならなかった。
「どうも今回のヤマは、裏で大きな力がぶつかり合うてるような気がしてならん」
天儀も、解決しない疑問を無理やり結論づけるような台詞を絞り出した。
「とにかく、チャカを持ってるだけで事が足りるようなヤマでないことは確かや。気ぃ付けてくれよ」
「はい」
俺は二杯目の誘いを断り、その場を去った。
翌朝、俺は目覚めると、散らかった部屋の片づけをはじめた。と同時に、現役時代、ガサ入れを手伝ってくれていた鍵屋を呼び、玄関のドアに電子ロックを取り付けるよう依頼した。ついでに、ガラス屋に割れたベランダのガラスを替えさせた。片付けを終えようとした、午前の終わりの頃に鍵屋は現れた。鍵屋は指紋認証のものを勧めてくれたが、連中につかまって指を落とされてはたまらないので、暗証番号式のものを取り付けてもらった。小一時間で取り付けが終わると、鍵屋はマニュアルを手渡した。
「鍵はオートロック式で、任意の六桁の番号で開きます。五回間違うと、携帯電話にメールが入るようになっています」
俺は受け取ったマニュアルを見ながら、暗証番号と自分のスマホのメールアドレスを設定した。これで連中も、昨夜のように簡単には中に入れないだろう。
シャワーを浴び、身支度を整えたところで、俺はインプレッサを取りに駐車場へ向かった。どうせ俺には見張りが付いているだろうから、これからは堂々と行動することにした。連中も、俺が対抗措置を講じたことは勘づくだろう。既に脇の下に忍ばせた拳銃のことも悟られているかもしれない。下手にこそこそしていては、いつ狙撃されるかも判らないから、俺は開き直ることに決めた。
車に乗り込むと、SIGP226をホルスターごと外し、助手席の下に入れた。警察暑に行くのにチャカを持っていては何かと面倒だからだ。なに、連中もまさか警察署の前で俺を襲ったりはしないだろう。
城東署の関係者用の車にインプレッサを止めようとしたら、とたんに制服の巡査が「ここは関係者以外駐車禁止ですよ」と飛び出してきたので、俺は桐ちゃんの名前を告げると、巡査は掌を返したように、丁寧に車を誘導してくれた。
交通課に赴くと、パソコンの前に座っていた桐ちゃんが俺を見つけてカウンターに飛んで来た。カウンターには家の前で路上駐車していた婆ぁが、切符を切られたと文句を言っていた。
「まずはホトケさん確認してもらおうか」
桐ちゃんに連れられて、俺は地下の霊安室に降りた。ドアを開けると、白布に覆われたキヨシさんが無念そうな表情で眠っていた。
「側面から大型トラックが猛スピードで突っ込んできたから即死や。顔が傷つかへんかったのが何よりや。恐らく、ホトケさん何が起こったんか判らんままあの世へ行ったんやろなぁ」
桐ちゃんがしみじみ呟くと、俺はキヨシさんの遺体に手を合わせた。
「で、ホシは判ったんか?」
「それが全然や。車の破片から車種や割り出せたんやけど、近畿一円に該当者はゼロ。おまけに近くのNシステムにも全く映ってへん。いま本庁の交通鑑識とウチが合同で捜査してるわ」
「ホトケさんを故意に狙った殺人という線はないか?」
俺が空とぼけて訊ねると、桐ちゃんは「うーん」と首をかしげた。
「いちおう、ホトケさんの家もガサかけたけど、人に恨まれるような痕跡はないしなぁ。事故も早朝のことやから、居眠り運転の可能性が高いんちゃうかなぁ」
俺は監察医の書いた死亡診断書を桐ちゃんから受け取ると、その場でかねて連絡しておいた葬儀屋に連絡し、遺体を引き取るよう依頼した。
「で、遺留品は?」
「こっちや」
俺たちは一階に戻り、証拠品の保管倉庫に入ると、桐ちゃんが段ボール箱を持ってきた。
「まだ捜査中やから確認だけやでぇ」
「わかってる」
俺は証拠品室の机の上で、段ボールをひっくり返し、キヨシさんの遺留品をぶちまけてみたが、USBメモリらしきものは見当たらなかった。
「事故車、まだこの署にあんのん?」
「ああ、あるでぇ」
桐ちゃんの連れられて、俺は城東署の地下駐車場に連れて行かれた。キヨシさんのタクシーは、その片隅で、シートを掛けられ、蹲るように放置されていた。俺は桐ちゃんの許しを得てシートをめくった。フロントグリルから前の席まではぐしゃぐしゃに潰れているものの、後方座席からトランクにかけてはほぼ原形を留めていた。俺は刑事時代から使っている白手袋をはめ、まずトランクを開けてみた、しかしここは桐ちゃんはじめ交通鑑識の連中が隅から隅まで見ているから中身は空っぽで、LPガスのタンクだけが灰色の光を放っていた。
「おおきに。ほなホトケさんの供養してくるわ」
俺は桐ちゃんに礼を言って交通課を後にした。出入口に向かうと、総合受付の前に思い詰めた様子の男が立っていた。梶本だった。迷っている暇はなかった。俺は咄嗟に、受付の女性警官に声をかけた梶本に近づくと、歩み寄ってきた女性警官に「なんでもない」と言って、彼を警察暑の外に連れ出した。
「あんた梶本さんやね。ちょっと話聞かせてもらおか」
あたりを見回したところ、尾行が付いている様子はなかった。俺は梶本と暑の隣にある喫茶店に入り、席に着くと二人分のコーヒーを注文した
「あなたも警察の人ですか?」
梶本に訊ねられ、俺は一瞬警察官を装おうと思ったが、正直に自分の身分を話し、ミエを殺した犯人を捜していることを梶本に打ち明けた。
「瑞枝が殺されたのは、僕のせいです」
梶本はウエイトレスが持ってコーヒーには口をつけず、ただうなだれていた。俺は、梶本は連中の一味ではないと直感した。
「あなたはミエちゃん……、瑞枝さんとはどんな関係ですか?」
「彼女とは、結婚の約束をしていました」
ミエとは、すみれ銀行の財務課で上司と部下だったのだと梶本は言った。
「いっしょに仕事しているうちに気が合って、やがて付き合うようになったんです。でも上役にバレて、瑞枝を辞めさせろと言われました。それなら僕が辞めますと言って、いまの会社を立ち上げたんです。でも、彼女も出向させられてしまった。その腹いせに、僕は財務課時代に知ったすみれの不正を、瑞枝に教えたんです」
「不正というと、具体的には…」
「裏金を作り、それを政治献金に回していたんです」
梶本は、自分が握ったすみれ銀行の不正を、ミエを使って検察に流していたと語った。
「普通の方法ではすぐにバレてしまいます。だから瑞枝をホテヘル嬢に化けさせ、検察の人間は客に変装して、ホテルをあちこち変えながら情報を渡していたんです」
「でも、それだけで瑞枝さんが殺されることはないでしょう」
俺がそう言うと、梶本は他の客の目も憚らず泣き崩れた。
「僕がいけないんです。会社の経営が振るわず、このままでは倒産も間近い、そうなると二人の結婚もダメになるとぼやいてしまったんです。そしたら瑞枝は、僕の情報を検察にではなく、すみれサイドに売り渡そうとしたんです」
「それで、逆に殺される羽目になった」
梶本は、うなだれるように首を縦に振った。
「最後の夜、瑞枝は決定的な証拠になるUSBメモリを持っていました。でも、僕が危ないと忠告したんです。そしたら彼女はここにUSBメモリを預けに寄り、『必ずお金取ってくるからね』と出て行きました」
つまり、ミエの同僚が会社のトイレで泣き崩れている彼女を目撃したのは、梶本の会社が倒産しそうだと聞かされた後で、最後の夜、キヨシさんの車の中で微笑んていたのは、これでやっと梶本と幸せに暮らせると思ったからなのだろう。
「そんな時代劇みたいな筋書き、成功する訳がないって、どうして彼女に忠告してやらなかったんですか!」
俺は、みじめに泣き崩れる梶本を見て、余計腹が立ってきた。
「勿論、僕もそう言いました。でも、あの時の瑞枝には何を言っても聞き入れてくれませんでした。ホテヘル嬢という普段の自分と全く違う世界の人間に化け、検察の人間と渡り合っていたのですから…同じ調子ですみれ銀行からも金が取れると思ったのでしょう」
梶本は後々の事を考え、自分が表に立つことなく、すみれの不正を暴こうとした。しかしミエが矛先を変えたことによって、それがかえって仇となった。もし梶本本人も矢面に立っていれば、ミエだけがすみれサイドに消されることはなかったのだ。俺は力一杯握った右の拳をそのまま梶本の横っ面に向けたいのをぐっとこらえ、かわりにいちばん肝心な点を問い正した。
「それで、USBメモリはいまどこに?」
「ここにあります」
梶本はポケットからおもむろにUSBメモリを取り出した。
「私には、もう無用の物です。どうぞ持って行ってください」
梶本は俺にUSBメモリを手渡すと、立ち上がって一礼し、喫茶店を出て行った。俺にはその姿が既に幽霊に見えていた。いまの彼にとって、浮世は既に過去のものということか。魂の消えた抜け殻のような梶本の身体は、そのまま国道一号線を彷徨っていった。俺は、キャメルを吹かしながら、彼の姿を見えなくなるまで追っていた。
俺はいつまでも感傷に浸っている暇はなかった。現に掌にはUSBメモリというジョーカーが握られているのだ。いまここで狙撃されてもおかしくない状況に陥っていた。鬼となった俺は喫茶店を出ると、キヨシさんの遺体が運ばれた近所の寺へ向かった。本来なればUSBメモリの中身を一刻も早く確認したいところだが、どうせパスワードがかかっているだろうし、それを解く技もパソコンも残念ながら持ち合わせていない。それにUSBメモリを見つけた興奮を冷まし平常心に戻るには、何よりもキヨシさんの供養をしてやるのがいちばんだと思ったからだ。
この寺で一晩通夜の真似事をして、明日の朝いちばんで火葬の手配を葬儀社に頼んだ。簡素な祭壇の前に棺桶を置き、坊主が簡単に読経を済ませると、俺は携帯で店長を呼び出した。
「パソコン持って、寺まで来てくれ」
タクシーを飛ばし来たという店長は三十分ほどで寺にやってきた。
「尾けられへんかったやろうな」
「俺がそんなドジ踏むように見えまっか?」
「ドジ踏んだからパクられたんやろがぁ」
店長は頭を掻きながら照れ笑いすると、鞄からノートパソコンを取り出した。
「これやねんけどな」
「ああ、ミエちゃんが持ってたっていうUSBメモリやな」
店長は持って来たノートパソコンを起動するなり、俺の手からUSBメモリを奪い取って端子に差し込んだ。案の定パスワードを訊ねる画面が登場したが、店長はものの数分でロック解除してしまった。
「さすがやな、店長!」
俺が店長の肩を叩くと、彼は「へへっ」と笑い、人差し指に鼻の下をひと撫でした。俺はディスプレイを覗き込み、USBメモリの中を確認した。まずは、おびただしい数の経理ファイルが出て来た。店長が、ひとつひとつを丁寧に開いていった。
「準ちゃん、これ、エライことやでぇ!」
「どないした?」
店長が思わず声を上げたファイルは全て、すみれホールディングスの裏帳簿なのだそうだ。
「相手先が全て頭文字で書かれてますけど、たぶん与党の大物代議士でしょうな。金額も皆大きいわ。この帳簿だけで、すみれ銀行を脱税と公職選挙法違反で引っ張れますわ」
USBメモリの中には、ひとつだけ動画のファイルが入っていた。
「これ、なんや?」
「開けてみまひょか」
店長がファイルを開くと、和室に初老の男性が二人登場する映像が流れ始めた。一人の男は背中を見せ、もう一人の男は和卓の向こう側に座っていた。二人とも座椅子を使い、脇息が添えられていた。どうやら床の間の奥の、花瓶の花の間から盗み撮りされているようだった。仲居の服を着た女性が二人の前に手早く膳を並べると、向こう側の男が背中の男にビールを注いでいた。
「あっ」と店長が声を上げた。
「こいつ、すみれ銀行の頭取ですわ」
さすがは二課のお世話になるだけのことはあって、店長は自信を持ってそう答えた。
「ということは……」
俺が次の言葉を発っしようとした瞬間、頭取がビール瓶を置くなり、膳の並んだ卓の上に、紫の上等な風呂敷でくるんだ包みを置いた。
「まるで時代劇観てるみたいやな」
俺が思わず呟くと、店長は「うーん」と唸った。
「こちら側の男、背格好からして、あの人ちゃいますか?」
店長は、次期総裁候補と呼び声の高い、与党の大物議員の名を告げた。
「ほれ、見てみなはれ、腕時計といい、数珠になったリストバンドといい、こないだ国会中継に映ってやつとおんなじですわ!」
風俗店の店長にしておくよりも、むしろ刑事にでもなったほうがいい鑑識眼で、店長は背中向けの人物までも特定してしまった。
「おい、俺ら、どえらいもん掘り出してしもうたでぇ。こりゃ虎の尻尾を踏んだどころの騒ぎでは収まれへんぞぉ」
店長も「そうだんなぁ」と言って、ノートパソコンをすぐさまシャットダウンしてしまった。
「俺ら二人、これで事が収まるまでは生命の保証はなくなったという訳や」
俺がそう呟くと、店長が急に震え出した。
「ほな、わたいらどうしたらよろしおまんの?」
もし連中が店長の隠れ家を知っていたら、今夜の襲撃は二手に分かれる。いやカナも襲うのならば三組だ。その分、寺の人数は少なくなるので、俺としては抗戦しやすくなる。けれども、この人のいいだけが取り柄のような店長一人では間違いなくやられてしまう。
「今夜は俺といっしょにいたほうが安全や」
俺がそう言うと、店長はいささか安堵したようだった。俺はカナにもメールを送り、この一日二日は一歩も外出せず、誰ともコンタクトを取らないよう注意を促した。しばらくしてもメールの返事が来なかったので心配したが、これ以上カナに構ってもいられない。真冬の昼がそろそろ暮れようとしている。俺たちは、とにかくこの一夜をどのように生き延びるか、早急に対策を立てなくてはならないところまで追い込まれていた。組織は俺たちがUSBメモリを入手したことも、そして中身を確認したことも間もなく把握するだろう。だとすれば、間違いなく今夜襲ってくる。組織の魔の手に対抗できるものといえば、シグザウエルのP226と計四十五発の九ミリパラベラム弾、キーホルダーがわりに使っているニンジャスティック、それに革ジャンのポケットにいつもいれているビクトリノックス社製の折り畳み式十徳ナイフくらいなものだった。彼らが襲ってくるときには、これらの何十倍もの火力、兵力、を使ってくるだろう。
とにかく、店長の身は何としても守らなくてはならない。俺はまず、寺の住職に事情を説明し、けして夜中に本堂には近づかないこと。万一物音がしても、けして部屋の外に出ないよう告げた。そして、後は考えられるだけの措置を施した。
本堂には終夜の明かりが灯され、キヨシさんの遺体の傍には通夜用の渦巻線香が焚かれていた。俺はキヨシさんの遺体の前で一人、車に積んであったジャックダニエルのちびちび飲みながら、もう一度これまでのいきさつを反芻していた。地検特捜部が動いていたいきさつは梶本の証言で判ったが、判らないのは、実際にミエを手にかけたのが誰かということだ。恐らく今夜襲ってくる連中の誰かということだが、昨夜の様子では拳銃で一発ズドンとやれば済むはずなのに、殺した相手はナイフを使っている。彼らの拳銃にはサイレンサーが付いているのは昨夜確認したから、ホテルで撃っても誰も気づかないはずだ。弾道検査から足が付くのを恐れたのだろうか。
そんなことをあれこれと考えているうちに、俺は少し眠ってしまったようだ。寺の門がキギッと開く音で目が覚めた。スピードマスターの針は午前三時を指していた。
「奴さんたち、来やがったな」
いくつかの足音が本堂に近づいているのを感じた。俺は奴らを十分引き付けておいてから、P226を取り出し、庭に向けて立て続けにぶっ放してやった。連中は俺が拳銃を持っているとは思っていなかったようで、「伏せろ!」という声とともに、一斉に黒い影が散った。俺は一弾倉撃ち終えると、すかさず本堂の中央に据えられている観音像の後ろに回り、弾倉を入れ替えた。しばらくしてから連中の反撃が来た。彼らが本堂の中を機関銃で盲撃ちすると、あちらこちらで弾の当たる音がした。俺の隠れている重い鋳鉄製の観音像にも何発が当たり、その度にカンカンと音がした。連中はひと通り撃ち終えると、ゆっくりと本堂に近づいてきた。俺はまた彼らを十分引き付け、彼らの前に出ると、今度はしっかりと狙いを定めて前の二人を立て続けに撃った。彼らは「うっ」と唸ってその場で倒れた。もちろんとどめは差していない。一人は足に、もう一人は右肩に被弾したのを確認すると、俺はすばやく観音像の後ろに隠れた。俺の居場所を知った連中は、こんどは正確に観音像を狙って機関銃を撃ち込んできた。鉄とっても鋳物だから、このままでは観音像が完全に砕け散ってしまうのは時間の問題だ。俺は、観音像の後ろにある、忍者屋敷にあるような回転式の隠れ扉から外へ逃げた。その扉の存在は事前に住職に教えてもらっていたのだ。なんでもこの寺は徳川家康が大阪城を攻め入った、大阪冬の陣夏の陣の頃に建てられたもので、不意の襲撃から逃れられるよう、秘密の出口が作られているのだそうだ。太平洋戦争時の大阪大空襲による被災も奇跡的に免れた。俺はそこからいったん本堂の裏に出ると、回り込んで庭の隅に隠れた。まだ残った連中は観音像を撃ちながら徐々に前に進んでいった。すると、庭の底が抜け、残った連中が悲鳴を上げながら落ちていった。それも、昔作った落とし穴の名残で、本当は竹槍が何本も突き出ていたのだが、それではあまりにも可愛そうなので、夕方セメントを流し込んで置いた。落ちた連中は半分固まりかけたセメントに手足を取られ、身動きが取れなくなっていることだろう。
「さすがは橋野元警部補。見事なお手並みですな。まさにランボーのようだ」
そう言って現れたのは、昨夜俺にUSPの銃口を向けたサングラスの男だった。ランボーというのは詩人ではなく、シルベスター・スタローンが演じた元特殊兵のことを差しているらしい。
「しかし、こちらにはまだ切り札があるんでね」
男はそう言うと、物陰から手を縛った女を引きずり出し、彼女にUSPを向けた。カナだった。
「もう終わりや。銃を捨てろ!」
俺は立ち上がり、P226を男に向けた。男は素早くカナを盾にして背後に隠れた。
「あなたが銃を捨てなかったら、私はこの女を撃ちますよ」
男の持つUSPの銃口は背後からカナの頭に突き付けられていた。
「カナを撃ったら、すかさず俺もおまえの頭を撃つ。それでもええんか?」
「ええ、どうぞ、そのかわりこの女も間違いなくあの世へ行きますよ」
男には、俺の脅しはまったく通じなかった。俺は仕方なく銃を放り投げた。
「賢明ですな」
「いまの銃声で、もうすぐ警察が来る、そうなれば、おまえらは一巻の終わりやぞ」
「そんなことは判ってますよ。だから、警察が来る前に私たちは失礼する」
男はそう言うと、カナの手を縛ったロープを解いた。自由になったカナはいままでの恐怖におののいた表情を一変させ、不適な笑みを浮かべると、俺の投げたP226を手に取り、銃口を俺に向けた。
「そうか、おまえがミエを殺したんやな」
「気付くのが遅かったわね」
「ホテルの防犯カメラに映ってたのも、おまえやったんか?」
「そうよ。ミエちゃんがすみれ銀行の贈賄を、風俗嬢に扮して検察に渡そうとしたのをいち早く察知して、私が送り込まれたの。あの店が、ホテトルを隠れ蓑にした警察の秘密組織で、あなたが本部長の隠し子だってこともね」
カナは、俺がそのことを隠し警察に入庁したことも、親子の関係がバレそうになった時、俺は『親父』に嵌められて警察官を辞めざるを得なかったことも、カナは全部知っていた。
「だから、まずあなたに取り入って、ミエちゃんの行動を阻止しようとしたのよ。でも、あなた彼女には甘かったから、結局私が直接手を下すことになったのよ」
「じゃあ事件当夜、南港のホテルで客を取ってたってのも、偽装やったんやな」
「そう、あの夜、私はホテルに入る振りをして、裏手に停めてあった別の車で、すぐに新大阪ホテルに行ったわ」
カナは新大阪ホテルの部屋に入ると、ミエを待った。客だと思って来たミエは、部屋にカナがいるので驚いたが、カナが自分は脅されているのだといって、容易にミエを部屋に引き入れたのだと言った。
「しかし、何もミエちゃんを殺さんでもええやろ?」
「ううん。私、あの子嫌いやったもん。そやかて、探偵さん、いくら私がエッチしてあげても、ミエちゃんのことばっかり言うんやもん。私、ホンマにあの子が憎かったわ。でも彼女がUSBメモリを持っていなかったのは誤算だったわ。だからすぐにキヨシさんのタクシーが怪しいと思ったのよ」
「おまえら、大資本の私腹を肥やすためなら、人の生命なんか関係ないってか?」
「それはどこも同じだよ。何もメガバンクに限ったことではない。CIAもMI6もモサドも、みんな国家のために人殺しをしている組織でしょう」
カナの代わりにサングラスの男が答えた。
「さあ、証拠を渡してもらおうか」
男はそう言うと、持っていたUSPを本堂の棺桶に向けて撃った。すると棺桶の蓋が開き、店長が慌てて飛び出して来た。
「なんで棺桶に隠れてるって判ったんや」
俺が訊ねると、男はニヤっと笑った。
「本当に隠したい物は、目の前に隠す。これがスパイの掟ですからね。それにあの棺桶、何発が流れ弾が当たった時にキーンって跳ね返す音がしたもので、あれじゃ鉄板で覆ってるのは丸判りですよ」
「いくらおまえらが悪党でも、死体には銃を向けないと思ったのが甘かったようだな」
男は飛び出してきた店長からUSBメモリとノートパソコンを奪い取った。
「これで、もうあなたがたには用はないってことですよ」
男がUSPの銃口を俺に向け引き金を引こうとした瞬間、二発の乾いた銃声が立て続けに境内に響いた。男の右腕から鮮血が飛び散り、USPが地面に落ち、カナの持っていたP226が弾け飛んだ。俺の後ろから、ニューナンブを構えた二人の制服警官がにじり寄って来た。一人は源田幸次郎警部。そしてもう一人は俺を心斎橋のホテルの前で怒鳴りつけた若い警官だった。
「準ちゃん。出番が遅うて待ちくたびれたわ。もう応援も呼んでるでぇ」
「源さん、悪いな」
俺は、源さんにだけは今夜のことを事前に伝えておいたのだ。それで彼は警らと称してこの界隈をパトロールし、銃声とともに部下の巡査と二人でこの寺に応援に来てくれたのだった。
「どや、井上。現場着任半年でチャカ撃てるなんてラッキーやろ?」
源さんが巡査に声をかけると、彼は興奮していた。
「ほんまに、これも橋野元警部補のおかげであります!」
井上の呼ばれた巡査は顔を紅潮させながら、言った。
「さあ、この連中、まずは銃刀法違反で現行犯逮捕してもらおかぁ」
何台ものパトカーが近づいてくるのがサイレンの音で確認できた。二人の制服警官が身柄を確保しようと男に近づくと、男は左手で素早くUSPを取り上げて連射した。俺たちがひるんだ瞬間、男はカナを連れて境内の外に出た。そして外に停めてあったレクサスに飛び乗ると、タイヤを軋ませて走り去った。
「源さん、ここ頼むでぇ」
俺はそう叫ぶと、インプレッサを素早くスタートさせレクサスを追った。レクサスは表通りに出ると、赤信号を無視して阪神高速の入口レーンに入った。そしてゲートを突破し、本線に突っ込んでいった。俺もその後を追った。真夜中で交通量は少ないものの、レクサスは走っている車にぶつかりながら環状線に合流した。俺はぶつけられた一般車両を巧みによけながら、レクサスの背後に迫った。通報を受けた交通機動隊のパトカーも何台か付いて来ているようだった。レクサスは百キロを優に超えるスピードで中之島の分岐に近づくと、環状線に入る右カーブに入った。けれども、そんなスピードであの九十度カーブを曲がれる訳がない。俺はブレーキを踏み三速に落としたその前で、レクサスはガードレールを飛び越えて下の川へと落ちていった。俺は急ブレーキを踏み、カウンターステアでかろうじてスピンを回避しながらインプレッサを停車させると車を降り、ガードレール越しにレクサスの行方を追った。大きな水しぶきを立てたレクサスは、いままさに川底に沈もうとしていた。俺はインプレッサに戻り、車を走らせると、北浜ランプで降り、天満警察署の前を通って一旦御堂筋に出、そこから中之島通りに出て、朝日新聞社の横で車を降りると、堤防の階段を駆け上がった。二人ともレクサスとともに川に沈んだようだった。野次馬や、騒ぎを聞いて駆け付けた傍に大阪本社の新聞記者たちも車の行方を堤防から眺めていた。現場には次々とパトカーや消防車といった緊急車両がやって来た。
翌日の新聞には南暑管内の寺の境内で暴力団同士の発砲事件が発生し、近くを巡回していた警察官二名が発砲して鎮圧したという記事と、暴走車が阪神高速から川へ転落した記事が、それぞれ別の事件として掲載された。俺は事故の後、南署で事情聴取を受け、朝一番で解放された。寺での拳銃発砲や交機のパトカーの目の前での速度違反は、なぜかお咎めなしということになった。南署を出た俺は、そのままいつものバーへ行き、居残りのバーテンダーが淹れてくれたコーヒーを啜りながら、天儀の前に座っていた。
「カナは亡くなったが、男は奇跡的に一命を取り留めたそうや」
天儀もコーヒーを啜りながら、眠い目を擦っていた。
「男の証言が取れ次第、梅田の殺人事件は被疑者死亡で送検っちゅうこっちゃ」
「で、地検のほうはどうなりますか?」
俺は男とカナが持って逃げた証拠の行方が気になっていた。
「残念ながら、二人が持っていたと思われるUSBメモリとパソコンは中之島の川の底や。そやけど、証拠は、ほれ、この通りや」
天儀はポケットからUSBメモリを取り出し、俺の前にかざしてみせた。
「さっき、店長がワシのところへ持ってきたんや」
店長は銃撃戦の間、あの狭い棺桶の中でコピーを取っていたのだった。
「それで、すみれ銀行は落ちますか?」
俺が控えめに質問すると、天儀は特捜のこれからの裏付け捜査次第だと答えた。
「いずれにせよ、梅田の殺人事件と昨夜の交通事故、それにすみれ銀行に対する贈賄容疑は全く別々の事件として処理される。おまえさんはいずれの現場にも居合わせなかった。幸い、おまえさんに預けたチャカは破裂してしもうたしな。あれも一味の武器やという扱いや」
男の素性は某新興宗教団体の一部過激派メンバーで、以前から公安がマークしていた人物だと、天儀は教えてくれた。
「ということは、親父は……いや、警察上層部は、最初から何もかも知ってたということですか?」
親父は最初から、坪井たちにはわざと変質者の線でホシを追わせて、俺を囮に使うことですみれサイドを撹乱させ、連中の目を官ではなく、一人のプライベートアイに向けさせた。その間に検察はすみれを抑える準備を着々と進め、このUSBメモリで落とす計画を練った。いわば、親父が検察にひとつ貸しを作ったということになるわけだ。俺はそのことで天儀に食ってかかってしまった。
「それが判ったのは、おまえさんの昨夜の暴走を一切不問に付すと知らされた今朝や。堪忍してくれ」。
「俺はまた、親父にいっぱい食わされたってことですね」
天儀はその問いには答えず、コーヒーを残したまま、俺の肩をひと叩きして部屋を去っていった。
俺は家に帰ってひと眠りすると、夕方インプレッサに乗って店に入った。ちょうど坪井警部と庄野巡査長が店長を問い詰めているところだった。
「おい、いったいどういうことや?昨夜の中之島での事故の直前、おまえの見覚えのあるインプレッサがNシステムの下を時速百キロ超で通過したいうのに、あれは昨日事故を起こした当該車両の追突を避けるために止む無く加速したものだと交通機動隊から連絡があって、一課長からもその件は今後一切触れないようにとは…。橋野、おまえどんな手使うたんや?」
「一課長から今後一切触れるな言われたんでしょ?ほな、警察官やったら、今後一切触れたらあきませんわ」
俺は、ただ目を丸くする坪井警部を置いて、女の子のデリバリーの仕事に就いた。今日からまたDPIの始動だった。最初の子はユイという、昼間が学生をしている、まだあどけない子で、車の中で、ミエちゃんとカナちゃんにはとても可愛がってもらったのだと涙ぐんでいた。俺にとっても、一人は何度が夜を共にし、一人はしたくても共にできなかった女の子だけに、なんとなく後味が悪かった。
最初の客が待つジャパンホテルでユイちゃんを下すと、そこへ、あの井上巡査が走り寄ってきた。
「橋野元警部補。昨夜はたいへん勉強させていただきました!」
「おい!そんな大声立てるな。昨夜のことがバレたら。おまえも懲戒免職やぞぉ!」
「はい!もちろん判っております」
井上が敬礼するのを俺は慌てて辞めさせた。
「そんなことより、今度はいつ非番や?たまには下も発砲させんと身体もたんぞ。どや、ウチの子、現職は安うさせてもらいまっせ!」
「いまは職務中でありますから、勘弁してください!」
逃げるように去っていく井上巡査を俺は笑って見送りながら、キャメルのほうに火を点けた。今年も押し詰まったミナミは、相変わらずの活況を呈していた。あんなに大きなヤマなのに、終わってみれば、世は事も無げだった。来年はどのような年になるのか、いまの俺には想像もつかなかったので、かわりにキャメルの煙を思い切り御堂筋に吐いた。すると、こんどは別の見知らぬ警官が警笛を吹きながら、「この周辺は全面禁煙!千円の過料ですよ」と近づいてきたので、俺は慌ててキャメルの地面に投げ捨てた。
【了】
