ミナミは今日も人であふれている。週末で月末、しかも年末ともなれば、インバウンドの外国人のみならず日本国民だって浮かれたくもなる。時の宰相は月末の金曜日をプレミアムフライデーなどと呼ぶよう推奨し、どんどんと国民に消費を促しているそうだが、そんな浮足立った生活は俺には全く関係ない。むしろ週末や月末、年末といった、人さまの懐が暖かい時ほど、俺の仕事は忙しい。
俺の仕事は、一般的にデリバリーヘルス、略してデリヘルと称される風俗営業に従事する女性を、客の自宅やホテルへ車で送迎することだ。前の仕事から転職してもう三年になる。最初は抵抗がなかったわけではない。客が『いい思い』をしている間、車の中で女の子が戻るのをじっと待つことに人生の不条理を感じ、やたらと煙草を吹かす毎日が続いた。しかしいまは慣れた。こうして女の子が派遣先で仕事を終えるのを待ちながら、車の中から道行く人々を観察するのもおもしろい。前の仕事とは人との関わり方も随分と変わった。不審な人物を探したり、ホシを追って街中を駆けずり回る必要もない。いまはむしろ、ただぼんやりと「この人はどのような人生を歩んできたのだろう」と、抒情的な視点で道行く人々を見ているだけでいいのだ。柳田國男の本に『山の人生』というのがあるが、いまの俺なら『街の人生』が書けるかもしれない。
俺が送迎しているデリヘル嬢たちも多種多様だ。仕事を終え車に戻ると、煙草を吹かしながら、いまの客がどれだけひどいか絶え間なく毒舌を吐く子もいるし、客にひどいことをされたと泣く子もいる。俺は女の子を次の客の元に運びながら、彼女たちの話に、いつも真剣に耳を傾けている。
次第に女の子たちからの信頼を得ると、さまざまな相談ごとを持ち込まれるようになった。郷の両親にはOLをしていると偽っている子からは、こんど両親が田舎から出て来るから、会社の上司のフリをして会ってくれとか、未練がましい彼氏と別れたいから仲裁に入ってくれとか、しつこい客を追っ払ってくれとか、次から次へと厄介事が持ち込まれる。俺の噂が女の子たちの口コミで広がると、他の店の子や水商売の女からも相談ごとが持ち込まれるようになった。
それらひとつひとつに丁寧に対処することで、彼女たちから謝礼をもらったりすることもしばしばだ。中には身体で払うという子もいたが、金銭トラブルに関しては一割を報酬としてもらうことに決めている。いつの間にか、俺はただのデリヘル運転手ではなく、女の子や店のあらゆるトラブルを解決する探偵の役割を担うようになった。ミナミの業界の人間は、俺のことをデリヘル界のプライベート・アイ、略してDPIと呼んだりする奴もいる。
今日は、営業がはじまる昼の十二時からひっきりなしに走り回っている。五件目は、先月入店してからいきなりナンバーワンになったカナを、ミナミの事務所から心斎橋のジャパンホテルまで送り届け、彼女が六十分コースをやり遂げるまで、俺はホテルに面した御堂筋の側道に車を停め、近頃は煙草の臭いを気にする嬢も増えたので仕事中はこれと決めた電子煙草を吹かしながら、ぼんやりと道行く人間たちを眺めているというわけだ。
「ちょっと、ここで何してるの?」
若い制服警官が運転席を覗き込んだ。襟章には桜のマークに縦棒が両側にひとつ。まだ駆け出しの巡査のようだ。この街の警官にしてはめずらしく標準語を話していた。
「人待ってるんや」
「ちょっと免許証見せてくれるかな?」
「なんで見せなあかんのや」
俺は電子煙草からプライベート用の煙草であるキャメルに替えると火を点け、警官の前で思い切り煙を吐いてやった。
「お宅、ちょっと不審なんでね、それで声かけたの。もう一回訊くけど、なんでここに駐車しているのかな?」
巡査の口調が次第に荒くなってきたので、俺は威嚇の意味で思い切り怒鳴ってやった。
「デリや!デリ! おまえポリのクセして、ジャパンホテルの前で停まってる車がたいていは風俗嬢の送迎やいうの判れへんのかぁ?」
「なんだと!こいつ公務執行妨害だぞ。」
御堂筋の歩道を行き来する通行人たちが、何事かとこちらを向いていた。警察官としての権威を傷つけられた巡査が無理矢理運転席のドアを開けようとした時、聞きなれた声が聞こえてきた。
「なんや、準ちゃんやないけぇ。車変わってたから判れへんかったがな」
警部補の襟章を付けた五十がらみの制服警官が、巡査の隣に現れた。
「源さん。ちょっと堪忍してぇや」
「悪いな」
俺の名前は橋野準。俺の顔は、南署の警らの連中にはほとんど覚えられていた。しかし、この巡査は源さんが声を掛けても、俺への敵意をむき出しにしていた。
「班長!年末は生活安全課と協力して不審車両の一斉摘発強化じゃないですか?どうしてこの男だけ例外にするんですか?」
「こいつはええんや」
「だからどうして?」
「彼は、元ご同業や」
「えっ!こんな奴がですが」
「ほっとけ!」
俺は薄い色の入ったサングラスを取り、思い切り巡査にメンチを切ってやった。
「悪いなぁ。準ちゃんの素性まで明かしてしもて。こいつ埼玉からこっちの大学へ出て来て、この春に卒業して、りんくうタウンで半年の研修終えて、十月にウチの暑配属なったばっかりなんや。堪忍したって」
源さんこと、源田幸次郎警部補が俺に声をかけても、巡査はずっとこちらを睨んだままだった。りんくうタウンとは五年ほど前に移転した初等科警察学校のある場所だ。ちなみに俺が最初に入ったのは、交野の警察学校だった。
「ほな準ちゃん、忙しいから、これでな。またハコにでも遊び来てえな」
源さんが、まだ俺に敵意をむき出しにしている巡査を引っ張るようにして去って行った。
するとそこへ、仕事を終えたカナが走って車に戻ってきた。
「おった、あの男」
「誰や?」
「前言うたやん、私のID盗んでブログでいたずらしてた男」
「おお!」
俺はカナに男が二階のロビーにいると聞くと、彼女を車に残して、ジャパンホテルの中へ入り、エスカレーターでロビーへと向かった。男はロビーでちょうど待ち合わせしていた別の店のホテヘル嬢らしき女と落ち合い、チェックインするところだった。こういう客もちょいちょいいた。部屋でプレイの交渉をするとその分時間に加算されるので、部屋に入る前にプレイ内容と値段の交渉をしたり、気に入らない女ならその場でチェンジするという、いわば遊び慣れた輩だ。俺は再びサングラスを掛け直し、男に声を掛けた。
「あんた、平田敦教さん?」
男はは明らかに動揺した。
「何や? あんた誰や? 警察か?」
「いや、警察よりもっと怖いお兄さんや。ちょっと話があるんやけどな」
俺は女をその場に残し、平田の肩へ手を回し、別のソファへ連れて移った。
「あんた、デリヘル嬢がシャワー浴びてる隙に女の子のスマホ触って、ID盗んでたやろ? それでその子になりすまして、友達の女の子の個人情報盗んだり、誘い出して暴行まがいなことしてたん、ちゃんとお見通しなんやで」
俺が耳元で囁くと、平田の震えが大きくなってきた。それでも彼は勇気を振り絞って、俺に立てついてきた。
「しょ、証拠あるんか?」
「おまんがな」
俺は自分のスマホの動画を再生し平田に見せた。それは別のデリヘル嬢がシャワーを浴びている隙にバッグからスマホを盗み出し、中を覗いている平田の姿をばっちり撮った映像だった。
「あんたの勤め先は堺にある有名私立高校。そこで情報科の先生してる。生徒に教えなあかんコンピューターの技術を、自分の欲得に使うてたらあきまへんなぁ。これが公になったら、あんたは警察にも捕まり、新聞にも実名で載る。もちろん学校は馘やな」
平田の震えが止まった。どうやら観念した様子だった。
「条件はなんや?」
「五十万。いまここで現金で払うてもらおうか?」
「そんな金、持ってへん」
「心配せんでも、このホテルには午前零時までやってるATMがあるんや。俺はあんたの勤める私立高校が、あんたになんぼのボーナス出したかもちゃんと調べはついてる。正月前に五十万ぽっちの残高がないとは言わせへんでぇ」
「サラ金の借金返さなあかんのや」
「それは俺の知ったこっちゃないな。金足れへんのやったら、また借金したらよろしやろ」
俺は無理矢理平田をATMに引っ張っていくと、一人で機械の前まで行かせた。それ以上近づくと防犯カメラに俺の姿が映りこむのだ。振り込め詐欺やらオレオレ詐欺が横行しているいまのご時世、二人組でATMの前に立っていると、間違いなく警察に目を付けられる。平田はATM一回の取引で引き出せる最高額を引き出すと、ご丁寧にそれを備え付けの封筒に入れて俺の前に差し出した。俺はすぐに中身を取り出して札を数えると、かわりに平田の目の前にワープロで打った書類をかざした。
「これは恐喝やないでぇ、示談や。あんたの悪事に対して被った被害に対する迷惑料っちゅう訳や。さあ、この書類に母印でええから押してんか」
俺は示談書二枚に無理やり母印を押させると、一枚を平田に手渡した。
「これで示談成立や。あっ、ついでに言うとくけど、あんたの手配書、この辺りの風俗店には全部出回ってるから、もう、どこも出入り禁止やで。これを機会に、アコギな真似は、もう止めるこっちゃな」
俺は五十万円の入った封筒と示談書の副本を胸ポケットに収めると、ロビーを後にした。エスカレーターに乗り込む時、呼び寄せたデリヘル嬢に帰れと叫ぶ平田の声が聞こえた。
「ありがとう!こんなんで四十五万円も入るやなんて、ほんまラッキーやわ」
カナは五十万円の封筒を受け取ると、五万円を俺に渡した。
「こっちもビジネスやから、そないに有難がらんでええわ。それより、次の客待ってるんやろ。早よ行こか」
俺はエンジンをかけると、ジャパンホテルを後にした。車は三年落ちのスバルインプレッサだ。ボディカラーは白。見た目は一、五リッタータイプの平凡な車種だが、エンジンはスバル自慢の二リッター水平対向エンジンを積み込み、それに市販車よりも過給圧を上げたツインターボを連結させている。そんじょそこらのSti仕様には引けを取らないだろう。一口に言えば羊の皮を被った狼だ。俺が自動車警ら隊にいた頃、乗っていたパトカーは全て同じような仕様を施していた。阪神高速ならポルシェであろうがフェラーリであろうが十分互角に戦える。もちろん、それだけのドライビングテクニックを備えているのが必須条件だ。
ふだんの送迎時は、六速MTをまるでAT車のごとく滑らかに走らせる。女の子も助手席に乗る者、後部座席に乗る者とさまざまだが、カナはいつも助手席に乗り、移動の間、いろいろな相談を持ちかけてきた。今回も、その相談ごとのひとつという訳だ。
「だから私、探偵さん好きよ」
カナは運転している俺の目の前に顔を寄せ、いきなり口づけをしてきた。
「危ないやないかぁ」
「ねえ、仕事終わったらご飯食べに行けへん? それとも、前みたいに私の疲れた身体を探偵さんの大きくて固いアレで癒してくれる?」
カナは俺の股間に手を置いてきた。そっちのほうは専門ではないが、俺と寝たデリヘル嬢は必ずといっていいほど、次をねだってくる。もちろん俺のプレイ料はタダというわけだ。
「俺みたいな四十男のどこがええんや?」
「そやかて、探偵さんベッドでも優しいもん」
今年で二十四歳のカナはどうやらファザコンの気があるらしく、えらく気に入られていた。しかし俺は同じ店にいるミエのほうが好みだった。
「今日はミエちゃんの頼み事しないとあかんのや」
「ええ!ほな今日はミエちゃんとエッチするの?」
「せえへんて。人探し頼まれてるんや」
「どんな?」
ミエもカナの少し前に入ったばかりの新人だった。ホテヘル嬢の割には品があり、はかなげな様子が客に受けていた。週に一、二日程度しか出勤しないが、いつも数名のリピーター客の指名で埋まるのだと店長が言っていた。どんなプレイで男を喜ばせるのか、俺は試したことがない。ミエは俺が送迎している時はいつも後部座席の乗り、あまり話さないので、俺もつい誘いそびれていた。そんなミエが先週、相談があるからとバックミラー越しに言ってきたのが、今回の人探しだった。
「先週、接客の後で鞄の中見たら、見覚えのないUSBメモリが入ってたんやて。ミエちゃん、それをお客さんに返したいから、身許を調べてほしいって言うてきたんや」
「ふーん、私やったら絶対そんな面倒くさいことせえへんわ」
確かにカナの言う通りだった。まず予約の際に店が聞いた携帯番号に連絡したが、何度かけても電波が届かないか電源が入っていないためかかりませんとのメッセージが返ってくるだけだった。俺は、店長にまた予約が入ったら知らせてくれと、その携帯番号を書いたメモを、カウンターの裏に貼ってある出入り禁止客の顔写真入りビラの横に貼っておいたのだが、再び予約が入ることはなかった。
カナを次の客が待っている南港の外資系ホテルまで送り、部屋や客に異常がないということをカナの電話から確認すると、車をホテルから少し離れた場所に停め直した。ミエからメールが入っていた。
『この前のお客さん、さっき予約があったの。だからもういいわ』
俺はミエに会えなくなり、少しがっかりした。本当にだいじょうぶなのか確かめるため、俺は店に電話を掛け、ミエの派遣先と時間を訪ねると、彼女は午前零時から梅田にある新淀川ホテルの旧館だと店長は言った。
「六十分で入ってるから、終わった頃に電話してみはったらどうだす」
店長からの電話を切り時計を見ると、もうすぐ零時になろうとしていた。とにかくミエに一度電話して、USBメモリを無事返せたことを確認したら、仕事が終わったカナと食事にでも行こうかと俺は考えていた。
カナが仕事を終え車に戻ってきたので、俺はもう一度ミエに電話した。しかし、彼女の携帯は留守電のメッセージが流れるだけだった。
「私、今日はもう仕事上がりやねん。なあ、このままどっかご飯食べ行こう!」
カナが俺の腕にすり寄って来たが、俺はミナミの事務所まで戻りたいと答え、阪神高速湾岸線に車を乗り入れた。真夜中の高速は空いていたが、俺は制限速度プラス十キロを維持し、いちばん左の車線をゆっくりクルージングしていた。
阿波座を過ぎ、そろそろ環状線に合流する場所まで来ると、携帯が鳴った。俺は耳に掛けていたイヤホンを通話モードに切り替え応答した。
「えらいこっちゃ!ミエちゃんが新淀川ホテルの部屋で殺された!」
店長の動揺した声がイヤホンをつんざく。
「何やて!客がやったんか?」
「まだわからんそうですねん」
店長は、普段から鼻薬を聞かせている南暑生活安全課の刑事から聞いたのだと叫んだ。
「曽根崎署に帳場が立つそうでっせ。一課は七係のお出ましやとぉ」
「七係かぁ」
俺は電話を切ると、車のスピードを百キロに上げ、思わずプライベートで吸っているキャメルのほうにに火を点けた。カナに事件のことを話すと、
「えっ!」
と一言だけ返し、後は助手席で身体を震わせていた。俺はカナを松屋町筋沿いの自宅マンションまで送ると、松屋町筋を北進し、南森町の交差点を左折して二号線に入った。さらに梅田新道の交差点を右折し、阪神前を抜けて芝田までインプレッサを走らせた。しかし芝田の交差点で規制線が張られていたので、俺は規制に出ている制服警官に新淀川ホテルの泊り客だと嘘をついて、ホテルの駐車場に車を入れた。
新淀川ホテル旧館の前には規制線が張られ、パトカーが何台も停車していた。俺はホテルの中へ潜り込むと、ロビーでいちばん厄介な刑事に出くわした。
「これはこれは、橋野元警部補の臨場やないかぁ」
七係の班長、堅物で通っている坪井英輔警部が自慢のダスターコートを俺の前でこれ見よがしに翻すと、すばやく俺の胸倉を掴んだ。
「ちょうどええわ。殺された風俗嬢、おまえんとこの店の子ぉらしいな。いまからガサ入れに行くとこやったんや。ちょっと話聞かせたれや」
坪井警部は俺の首を片手で挟んだままロビーの陰に連れ込んだ。
「今日はどんな客ついてたんや?」
「俺は知らん。店長に聞いてくれ」
「まさかシャブとかクスリやっとったんちゃうやろな?」
「ウチの子はそんなもんしてへんわい」
それから坪井警部はミエ、本名瀬尾瑞枝の人相や昼の仕事、それに交友関係を俺に訊ねた。そのへんに関しては、俺は知っている限りのことを正直に話した。俺としても一刻もホシを上げたい。しかしそれは俺の仕事ではなく、天下御免の警察手帳を持った坪井たち警察官の仕事だからだ。但しUSBメモリのことは何も言わなかった。
「で、おまえはどうや? この女と寝たんか? 味はどうやったんや?」
「知らんわ!」
俺はそう言うと、坪井の腕を無理やりほどいた。
「俺にとったら、おまえは最重要容疑者の一人なんやぞ。今晩犯行時刻におまえがどこにおったんかNシステムでしっかり調べさせてもらう。おまえの車は白の二〇一四年型のインプレッサ。ナンバーはなにわ300へ38-××やからな」
坪井警部は、最近乗り換えたばかりの俺の車のナンバーまで知っていた。たぶん、警察車両の特装を請け負っている業者から調べたのだろう。俺は現役時代にその業者にちょっと貸しがあったので、いまでも俺の車の面倒を見てくれている。
「とにかく、いつでも連絡着くようにしとけよ」
俺は坪井警部からやっと解放されると、庄司という元後輩をこっそり捕まえた。
「凶器はなんや?」
「橋野先輩には言うたらあかんて言われてるんです」
「おまえ、俺にそんなこと言える資格があるんか?刑事のイロハを教わった恩を忘れたんかぁ?」
俺は、坪井警部にされたのと同じことを庄司にしてやると、彼は声を出さないように真剣に痛がった。
「く、果物ナイフです。左胸をひと突き、女は全裸のまま即時状態でした」
「ホシの人相は?」
「いまホテルの防犯カメラを解析中です」
「フロントが覚えとるやろ?」
「それが、チェックインしたのは昼で、フロントに訪れたのは女だそうです」
「女?歳は?」
「二十歳台やそうです」
「女の人相は?」
「白い花柄のワンピースで毛皮のコート、大きなつばのついた紫の帽子、それに大きなサングラスをしていたそうです」
初動捜査時の現場でつかめる情報はこの程度だった。俺は庄司を解放し、カメラの解析結果が判ったらこっそり連絡を寄越せと、坪井警部に言われた台詞を返してやった。
店に戻ると、ちょうど警察の家宅捜索が終わったところで、店長がひとり後片付けに右往左往していた。客はもちろんおらず、他の女の子たちは予約の入っている者以外は皆家に帰されていた。
「えらいこっちゃあ。もう仕事ワヤやがな」
店長はさんざん警察にかき回された事務部屋で、散乱した書類の渦に埋もれながら途方に暮れていた。
「店長、ミエの今日の予約は、どないして入ったんや?」
「電話だす。ディスプレイ表示された番号は警察に教えましたでぇ」
時間の経過からしても、ミエを刺したのは相手の客に間違えないと、俺は店長に伝えた。
「USBメモリ忘れた客や。何か思い出されへんか?」
「そないいうてもなぁ」
俺はキャメルを二本取り出して火を点けると、一本を店長の口に差してやった。
「そういえば」
店長は煙草を吸いつけた後、何か思い出したようだった。
店長は頭を掻きながら、必死に思い出そうとしていた。
「そや、ずっと標準語で話してたわ」
「ほんまか?」
「へえ、そやから出張に来てるんや思うたんです」
「で、二回ともミエは指名やったんか?」
「へえ」
「一回目に呼んだ場所は?」
「えーと、確かホテルニュー京橋でしたわ。OBPが近くやから、そん時やっぱり出張のサラリーマンや思うたんです」
「デリは誰がしたんや?」
「確かキヨシさんですわ」
キヨシさんの本名を俺は知らない。昼は個人タクシーの運転手で、夜は店の女の子の搬送をしていた。何でもミナミで酔っ払いに因縁をつけられ、車をボコボコにされてからは夜の商売には出なくなったと聞いたことがある。
俺は店長に礼を言うと、庄司の携帯に電話をかけた。
「カメラの映像、確認できたか?」
俺がそう言うと、庄司は「ちょっと待ってください」と小声で答え、ややしばらくしてまた話しはじめた。傍に誰もいない場所に移動したようだ。
「それが、カメラの場所あらかじめ判ってるみたいで、ちっとも人相出ないんですよ」
被疑者と見られる男は黒っぽいロングコートにすっぽり身を隠し、ソフト帽を被ってマスクをしていると庄司は教えてくれた。
「エレベーターホールでもロビーでも、絶対カメラに顔を向けへんのです」
恐らくニュー京橋ホテルの防犯カメラの映像が残っていたとしても同じだろう。被疑者はあらかじめ下見してカメラの位置を全て把握しているようだった。立ち居や歩き方から、被疑者は二十歳代の男と推定されていると、さっきの庄司が教えてくれた。
「客の携帯番号、ウチの店長が伝えたやろ。身許は割れんかったんか?」
「それが、トバシらしんです」
俺は庄司の電話を切った。
「ここで手がかりが切れたか」
俺は店長にも何か思い出したら連絡するよう伝え、店が入っているビルを出ると、ミナミの街へ出た。ミエが殺されたのは梅田なのでミナミの夜にはさほど影響なく、賑わいは相変わらずの様相を呈していた。但し、イヤホンを付けた制服警官の数はいつもより多かった。挙動不審な人物がいたら片っ端から職質をかけろとでも命令されているのだろう。源さんやさっきの巡査も、このあたりを同じように巡回しているはずだ。
俺は宗右衛門町の一角にある馴染みのバーのドアを潜り、カウンターに座った。顔見知りのバーテンダーは、何も言わなくても慣れた手つきで俺の前にコースターを敷き、その上に小さなストレートグラスを載せた。前に置かれたボトルには三人の顔の入った黒いラベルが巻かれていた。JTSブラウン十年。メロウではあるが、バーボン独特の荒々しいのど越しのあるテイストが、一日の俺の疲れを癒す。映画「ハスラー」でポール・ニューマンが飲んでいたので有名だ。だが俺は、同じニューマンでも「動く標的」のルー・ハーパー役のほうが好きだ。
グラスに口を付けると、さっきのバーテンダーがさりげなく俺の前にやって来て耳元で囁いた。
「VIPルームで天儀さんがお待ちです」
俺が黙って頷くと、バーテンダーはそのまま俺の前を通り過ぎた。おれは残りのJTSブラウンを一気に飲み干すと、一番奥にある個室のVIPルームのドアをノックした。
「入れ」
ドスの効いた声が奥から響くと、俺はドアを開けた。そこには黒革張りのソファーが並び、中央に純白のスーツを来た六十がらみのでっぷり太った男が、ドレスに着飾った女たちをはべらせてふんぞりかえっていた。天儀剛一郎、俺のいまの雇い主である。
「今回のヤマはちょっと面倒やな」
天儀が勧めたソファに俺が腰を下ろすと、女たちが素早く移動し両サイドに着いた。
「おまえはどう見る?」
天儀はブランデーのグラスを揺らせながら、俺に探るような視線を送ってきた。
「こっちがらみやないですかねぇ」
俺は頬に指を走らせた。
「それはないな」
天儀はそう答えると、ブランデーを一気に飲んだ。すると女たちが素早くおかわりを注いでいた。
「もし反社会的集団が絡んでるなら、全国どこの組の仕業でも俺の耳に入らんはずはないんや」
「ということはカタギ?」
「もしくは外もんやな。こっちが関わってるなら、南米か東南アジア」
天儀が親指を鼻の先に押し付けた。
「ロシア系でしょうか?」
「あいつらは刃物使わん。みなチャカや」
俺は天儀の話を聞きながら、ホシの線とはかけ離れているように思えた。
「ヤマとしてはホテヘル嬢が客に殺されたという、ごく平凡なものですが、俺はどうもウラがあるように思えます」
俺はミエが、客が忘れたというUSBメモリ預かっているという話を正直に伝えると、天儀は頷いた。
「ということは、事件のカギはそのUSBメモリにあるっちゅうことか?」
「たぶん」
USBメモリは元々ミエ、もしくは彼女が第三者から預かったもので、今日の客、つまり犯人はそれを手に入れるため犯行に及んだのではないかと、俺は睨んでいた。
「さすがはワシの見込んだ男や。やっとおまえさんの本領発揮やな」
この天儀も元警察官だ。本庁の生活安全課の班長をしていて、もっぱら曽根崎や天満、それに南といった所轄と合同で違法風俗店の摘発を主な仕事にしていた。ある時、内偵で親しくなった出稼ぎのタイ人風俗嬢を摘発寸前に店から逃がしたのがバレて警察を辞めた。本来なら懲戒免職が筋だが、この天儀という男、警察幹部の弱みを相当握っていたらしく、書類上は私事による依願退職という形が取られた。いまでも天儀の握っている情報は効力を持っていて、そのおかげで彼の経営する飲食店や風俗店は、かなりの恩恵を被っている。多少非合法なことにも手を染めているが、そこは元警察官の良心があるのか、ドラッグと、庶民を泣かせるような行為には及んでいない。俺が警察を辞める羽目になった時、いち早くスカウトしてくれたのが、この天儀なのだ。
「とにかく、ウチは大事な稼ぎ手を奪われたんやからな。弔い合戦せないかん。おまえ、このヤマ追うてみぃ」
天儀に言われるまでもなく、俺はそうするつもりだった。俺は彼と一杯だけ酒を酌み交わすと、バーを後にした。そして店長に電話し、今日ミエをデリしていたキヨシさんの居所を訊いた。
「今日はもう上がってるはずでっせ」
俺は店長に教えてもらったキヨシさんの携帯に電話した。すると、既に就寝中だったという彼が電話口の向こうに現れた。
「俺もさっきニュース見て驚いてたんや」
「キヨシさん、現場におれへんかったの?」
「それがなぁ、ホテルの部屋に入ったいう確認の電話がミエちゃんから入った時、客が急に朝までに変更したいうから、俺、梅田から蒲生の自宅へそのまま帰ったんや」
キヨシさんは、本来は個人タクシーである黒のクラウンをそのまま嬢の送迎にも使っていた。自宅に入ったキヨシさんは明朝の仕事のために車を洗い、家でビールを飲んでいてはじめてミエが殺されたのを知ったのだと言った。
「ホテルまで送ってる間、ミエちゃん、いつもと違う様子なかった?」
「あの子、普段は後ろの座席でほんまのタクシーの客みたいにいつも黙って乗ってるのんが、今夜は俺の車に乗った途端、急に電話を掛けたんや。なんか営業用の話しぶりやったから、昼の仕事相手と話してたんちゃうかな」
ミエは電話を切ると、新淀川ホテルに向かう前に北浜に寄っててくれと頼んだという。
「証券会社の裏手で車降ろすと、小さいビルに入っていったわ。んで、五分ほどしたら戻ってきたんや」
「そのとき、なんか変わった様子なかった?」
「うん、なんやニコニコしとったなぁ」
キヨシさんは、明朝関西空港へ送る予約が入っているのでそろそろ寝かせてくれと言ってきた。俺はもっとミエの電話の件を訊きたかったのが、明日の仕事が一段落ついたら続きを訊かせてくれと言って電話を切った。現職の刑事ならさらに捜査を進めるところだが、プライベート・アイの捜査はこのへんまでだった。俺は自宅へ帰るとシャワーを浴び、飲み足りなかったウィスキーのストレートを三杯胃の中へ流し込んだ。以前はこの部屋にも、同じ戸籍の、いっしょに飲んでくれる女もいたが、俺が刑事を辞めてからはずっと独りだ。女と寝る時は相手の部屋かホテルが相場だ。別にプライベートな空間に女を招き入れることで、元女房との思い出を壊したくないということでもない。しかし、ミエとならこの部屋で共に過ごしてもよかったなと思いながら、おれは最後のグラスを頭上高く持ち上げ、黙礼してから一気に飲んだ。
翌日、俺は昼前に目覚めると、まず冷凍庫から製氷トレーをひとつ引っこ抜き、洗面台に栓をすると、氷を全部そこへぶちまけた。さらに出しっぱなしにした水の中に自分の頭を放り込んだ。これで大方の二日酔いも消える。昨夜は二日酔いするほど飲んでもいないが、毎日の習慣を崩すことはしない。有名な探偵は、だれもが修行僧のように規則正しい生活を送っているものだ。
次に、これも日課である朝食のコーヒーの準備に取り掛かった。といっても豆を挽き、サイフォンで丁寧に沸かすというような面倒なことはしない。近所のスーパーで二リットル六三円で売っている天然水の四分の一を電気ポットで沸かしながら、ペーパーフィルターをセットし、そこへ毎回アマゾンで購入しているMJBアーミーグリーン大缶から二杯分の粉を入れる。アメリカ人好みの素っ気ない味わいがこの稼業にはぴったりだと、俺は彼らが神を信じるのと同じくらい信じている。
テレビを点けると、ちょうど昼前のニュースの時間だった。関西ローカルに変わった最初のニュースを見て、おれは持っていたコーヒーカップを落としそうになった。今朝早く蒲生四丁目の交差点で、キヨシさんの乗ったタクシーが猛スピードで信号無視したダンプカーと衝突し、キヨシさんはその場で心肺停止状態、搬送先の病院で死亡が確認されたと伝えたからだ。本名が蓮見清だということはニュースではじめて知ったが、画面に映った、ぐしゃぐしゃになったクラウンの緑ナンバーはキヨシさんの車に間違いなかった。ダンプカーはそのまま逃走したとアナウンサーが伝えると、俺はすぐ店長の携帯に電話をかけた。
「ニュース見たか?あれキヨシさんやなぁ?」
店長が寝不足気味の抜けた声で電話口から話しかけると、俺は大声で怒鳴った。
「先週から昨夜までミエちゃんに関わったスタッフと女の子に、すぐ安全な場所へ避難させろ!」
「準ちゃん、それ、どういうことだす?」
相変わらずボケた声を放つ店長に、俺は説明している暇はないと答えると電話を切った。そしてすかさずに庄司に電話した。
「今朝、ウチのドライバーがやられた。昨夜の殺しと同一犯や」
「何言うてるんですか」
庄司は、変質者の前科者リストから昨夜のアリバイがない連中を曽根崎署の古参刑事と昨夜から洗ってるのだと言った。
「それは外れや!交通課に頼んで、今朝の蒲生四丁目近辺のNシステム、全部調べてもらえ!」
庄司には事のいきさつを話した。
「昨日のデリヘル嬢殺ったんは変質者と違う。もっと大きな黒い影が動いてるぞ」
庄司は、いちおう坪井警部に話してみると言って電話を切った。
「くそ、キヨシさんまで殺られたか」
俺はまた手がかりを失ったことを痛感した。しかしとにかく動かなければと、俺はシャワーを浴び、出かける支度をした。マンションを出る際、表のドアに細工を施した。隙間に小さく千切った煙草の箱を折り畳んで挟んだ。近くの月極駐車場に停めてあるインプレッサまでやって来ると、おれは車の下に潜り、爆発物や追跡装置などが仕掛けられていないかを確認した。それからそっと車のドアを開け、ボンネットを開いた。念のためガソリン給油口もこじ開けられた形跡がないか確かめた。どこにも異常がないことを確かめた時、天儀オーナーからの電話が鳴った。
「店の方、あんたが手配してくれたみたいやな」
天儀も関係者をすぐに避難させるよう店長に念押ししたと答えた。
「警察は変質者の線を追ってるようですから、ホシをパクるの、相当時間がかかるようです」
「そのようやな、そっちのほうは俺から話通してみるわ」
天儀は俺なんか比べ物にならないくらい、警察との大きなコネを持っている。彼が手を回せば、坪井も捜査方針を変更せざるを得ないだろう。
「そやけど、待ってられへんから、あんた先に動いてくれ。で、あんたはこのヤマどう見てる?」
「どうもミエちゃんの昼の仕事に関係してるように思えてなりません」
俺がそっちのほうから当たると言うと、天儀はすぐに彼女の昼の勤め先をメールで送ると答えた。運転席で煙草二本灰にしたところで、彼からのメールが届いた。
「すみれリアルエステート? 大会社やないかぁ」
旧財閥の二行が合併してできたすみれ銀行は、預金高も五本の指に入るメガバンクだ。そのグループ会社に勤めるOLが、どうしてデリヘルなんぞやっているのかが、まず疑問だった。仮に派遣社員やパートだったとしても、ミエ一人が食べるには事欠かないほどの給料はもらっていたはずだ。それなのに、どうしてホテヘル嬢をするようになったのだろうか。ブランド品の買物でクレジットカードを焦げ付かせなのか。そんな女はデリヘルの世界には腐るほどいる。しかしミエの普段の服装は地味なもので、とても身に着けている物に分不相応な金をつぎ込んでいるようには見えなかった。ということは裏に何かある。俺はそう仮説を立てた。
「もしかすると、コイツは現職時代に経験したどんなヤマよりも、どエライヤマかもしれんなぁ」
俺はまず、本町にあるすみれエステート大阪支社へ向かった。玄関で所轄の刑事を連れた庄司に出くわしたので、俺は判らぬよう彼に眼を飛ばし、二人の刑事が中へ入っていく様子を伺っていた。一階の共用ロビーで彼らが待っていると、制服姿の女子社員が現れ、何か訊ねていた。質問は五分程度で終わり、俺は庄司が中から出てくるのを待っていた。目の前を通り過ぎようとしている庄司にもう一度眼を飛ばすと、彼は相棒に「ちょっとトイレに行ってくる」と行って、地下に入って行った。俺も後を追い、向かいにある雑居ビルの共用トイレに入った。
「で、俺の教えた件、坪井さんに言うてくれたか?」
俺は周囲の利用者に話が見えないよう注意しながら庄司に訊ねた。
「あきません。捜査本部で橋野先輩の名前を出した途端に拒否られました。坪井主任にも今朝の蒲生の件は無関係や言われました」
「アホ!ウチの店のもんが二人殺されたんやぞ」
俺が庄司の胸倉を掴んだ瞬間、他の利用者が入ってきたので、あわててその手を離した。俺たちは用を済ませると、並んで洗面台の前に立った。
「とにかく、これ以上犠牲者を出さんようにって坪井さんに言うとけ!」
俺は庄司の肩を叩くと、先にトイレを出た。
俺はもう一度すみれエステートの玄関口まで戻ると、ちょうど、さっき聴取に応じていた女性社員が制服のまま外に出たところだった。俺はすかさず彼女を呼び止めた。
「すみません、さっきの件、もう少しお話を聞かせてもらえませんか?」
女性社員が怪訝な顔つきをしたので、俺は仕方なく、自作の警察手帳をかざし、所轄の者だと名乗った。
「これもさっきの刑事と同じで、テレビに出てくるようなあんな綺麗なんと違うでしょ」
俺は相手を信用させると、近くのコンビニにおやつを買いに出たという女性社員の後を着いていった。
「で、さっきの刑事さんたち、あなたに何を訊ねたの?」
「また同じこと言うんですか?」
「ハハ、ごめんね。ここは刑事ドラマといっしょで、本庁と所轄って、仲悪いんですよ」
俺が笑いながら言うと、女性社員も「ほんまに?」とつられて笑った。
「なんか、会社で瀬尾さんと親しかった人教えてほしいって言われました」
「で、親しい人の名前、答えたの?」
「それが、あの人と仲の良かった人っていないんですぅ」
「一人も?」
「ええ」
「男性で瀬尾さんを好きな人、いなかった?」
「それも訊かれました。まあ綺麗な人やから、ええなあいう人はおっても、実際にアプローチした人、おらへんのと違うかなぁ」
「どうして判るの?」
「そやかて、瀬尾さん暗かったから、私ら女の子の間では評判悪かったんですよぉ」
俺は、彼女といっしょにコンビニに入ると、好きなおやつをカゴに入れさせ、全部レジで払った。
「いやあ、うれしい!刑事さんにこんなぎょうさん買うてもろて」
俺は人差し指を口の前に持って行った。
「さっきの刑事、また来ると思うけど、その時は内緒にしといてや。会社の人たちにもやで」
彼女は「ハイ」と元気よく返事してみせた。
「ところで、瀬尾さんて、どんな部署にいたの?」
「法人調査部です」
すみれエステートは、企業の社宅用などにマンションの一棟貸しをしている会社だと女性社員は言った。
「で、彼女はどんな会社と取引してたのかな?」
「私は部署が違うので、そこまでは判りません」
これ以上は何も訊けないと判断し、俺はコンビニの前で女性社員を解放しようとしたその時、彼女が「そういえば…」と切り出した。
「十日くらい前やったかなぁ。瀬尾さん、トイレの洗面台の前で泣いてたんです。それで『どうしたの?』って声かけたんやけど、彼女何も言わんと出て行きました」
「それって、珍しいこと?」
「だって、普段は何考えてるか判らへんくらい無表情なんですよ。私てっきり悪い男に捨てられたんやと思いました」
俺は女性社員を見送ると、コンビニの前で煙草に火を点けた。やはり男が絡んでいる。それがどのように絡んでいるのかまだ判らないが、少なくとも、ミエは小遣い稼ぎや興味本位でホテヘル嬢になった訳ではないような気がしてきた。
「となると、やっぱりUSBメモリの客が一番臭いな」
何とかこの線を辿れないものだろうか。これで糸口が掴めば、必然的に犯人像が見えてくるし、キヨシさん殺しのほうもケリがつくように俺は思えた。
俺はコンビニの袋を両手に抱えながら、オフィスに戻るために御堂筋の信号を渡っている女性社員を見送っていた。すると、明らかに彼女を尾行している不審な男を見かけた。男が徐々に近づいていくので、俺は咄嗟に赤信号になった横断歩道を渡った。走り出した車が急ブレーキをかけ、俺は激しくクラクションを鳴らされたが、男は俺に気付いた様子もなく、入口に立つガードマンの前を通り過ぎる女性社員を、声を掛けそびれたといった様子で見つめていた。俺は街路樹の陰に隠れ、男の様子を見ていた。男は仕方ないといった様子で北の方角へと歩き出した。どうやら、俺と別れた後に彼女を見つけたようで、俺のことには全く気付いていないようだった。
男は、このあたりの地理には詳しいようで、細い路地をジグザクに歩みを進め、やがて北浜の交差点に出た。堺筋を渡り、証券取引所の前を通り過ぎると、彼は東横堀川のほうへ歩いていった。
「おいおい。これはもしかすると、ミエが殺される前に行った場所に連れていってくれるんじゃないか?」
俺は思わず独り言を言いながら、男の後を追い続けた。彼は古い雑居ビルに入った。向かいの歩道の、入口の中が見える位置から男がエレベーターに乗り込むのを見届けると、俺は走ってエレベーターの前に向かった。男の乗ったエレベーターは四階で止まっていた。俺は入口にある各階の案内表示で、四階には「梶本証券金融」というテナント一社だけであることを確認した。もし俺が現職の刑事なら、応援を呼んで、すぐに四階へ行くだろう。しかし今はしがない探偵だ。しかも応援要員など一人も存在しない。もし警察より先に当たりを引いてしまえば、それはそれで後始末が面倒になる。民間人でも、相手が襲って来たら傷害で現行犯逮捕もできないことはないが、そうすれば坪井警部ら捜一のメンツが丸つぶれだし、逃げられればもっと厄介になる。俺は四階に上がるのを諦め、男がまた出てくるのを待つことにした。
幸い、向かいのビルの一階に中華料理店があり、そこから入口を見張ることにした。店内に入り、通りに面したテーブル席に陣取ると、薄汚れたコック服を付けた丸顔の親父が水を持って注文を取りに来た。俺は五目焼きそばとノンアルコールビールを注文した。ここからだと、梶本証券金融のある四階に照明が灯っているのも見渡すことができた。
俺はあらためて店内を見渡した。店内にいるのは、遅い昼食を採りに来た近くのサラリーマンか、日経新聞や株式専門誌を広げ、イヤホンで熱心に短波ラジオを聴いている個人投資家といった連中ばかりで、梶本証券金融に関わりにありそうな人物は見当たらなかった。俺は運ばれてきた五目焼きそばに酢と辛子、それに醤油をかけてほぐしながらちびちびと食べ、ノンアルコールビールのお代わりを注文した。
こんどはいつ男が出てくるか判らなかったが、とにかくここで待つしかない。といっても、五目焼きそば一人前に加え、小瓶二本のノンアルコールビールの炭酸で、俺の腹はぱんぱんに膨れ上がっていた。俺は仕方なく煙草を何本も灰にしながら、このままじっと向かいのビルを見張った。幸い昼の時分時を過ぎ、他の客たちものんびり座ったままだったので、店主は食事を終えた俺にも出ていけとは言わなかった。
五本目の煙草を吸い終えた時、四階の照明が消えた。俺は慌てて煙草の火を消し、レジで千円札二枚を放り出した。親父が釣銭を渡すと同時に、例の男がビルから出てきたので、俺は何食わぬ顔で後を尾けた。男はさっき来た道をまた歩き出した。堺筋を越えると、本町の方角に向かって、また細い道をジグザクに歩いていった。瓦町三丁目の交差点に出ると、男は歩行者信号が点滅している御堂筋を小走りに渡ろうとしていた。
「おいおい、これじゃまた、すみれエステートのあるビルに行っちまうやないか」
俺は途中で信号が赤になった御堂筋を走って渡ろうとしていた。交差点で止まっている車は俺の姿を見てまだ走り出そうとはしなかったが、俺たちが出てきた同じ路地から、黒のレクサス四五〇が急に交差点に進入してきた。レクサスは発進したばかりの車にクラクションを鳴らされてもお構いなしに左折して、俺に突っ込んできた。
「危ない」
歩道にいる誰かが叫んだと同時に、俺は走った勢いで、向こう側の歩道へとジャンプし、かろうじてレクサスとの衝突を避けた。レクサスはそのままタイヤを軋ませながら走り去り、俺はというと、柔道の受け身をしながら、大勢の人が歩いている歩道に転げ込んだ。
「だいじょうぶでっか?」
「救急車呼びまひょか?」
しばらく倒れたままの俺に、道行く人々が声をかけてくれていた。俺はその場に立ち上がると、周囲の人たちに礼を述べ、皮ジャンとジーパンについた汚れを手で払った。
「しかし、あの車も無茶な運転するなぁ。ナンバー見てへんけど、警察呼びまひょか?」
スーツ姿の親切な親父がそう言ってくれたが、俺はそれも丁重に断った。親父は見てないと言ったが、俺はレクサスのナンバーをしっかりと確認していた。一市民と元警察官の違いだろう。それにあのレクサスは明らかに俺を轢くのを目的に御堂筋に突っ込んできたのだ。ということは、梶本証券金融もやはり一味の片割れなのだろうか。
男の姿はもうどこにも見当たらなかった。念のためすみれエステートの前まで行ってみたが、ここにも男はいなかった。
俺は仕方なくインプレッサの停めてあるコインパーキングまで戻り、ホテヘルの店に向かうため車を御堂筋へ出した。心斎橋の大丸を過ぎたあたりで、さっきと同じナンバーの黒のレクサスがぴったりと俺の後を尾けていた。
「俺もなめられたもんやなぁ」
振り切ることも考えたが、ミナミのど真ん中でカーチェイスでもしようものなら、さっきの暴走ぶりだと歩行者を何人も轢き殺しかねないので、俺は別の方法でレクサスを振り切ることにした。俺は気付いていないフリをして、ゆっくりとインプレッサを走らせた。難波の交差点を左折し、千日前通りへ出ると、そのまままっすぐ東へ向かった。そして上六の交差点まで来ると、また左折し、上町筋を北上した。レクサスの運転手は運転が下手なのか、それとも単なるイラチなのか、インプレッサの間に別の車が入る度にクラクションをけたたましく鳴らしながら、俺の後ろにピッタリと尾いていた。そんなに派手に走り回れば、免許取りたての初心者マークを貼った車にだって、尾行されていることがばれてしまう。俺は、レクサスが他の車を巻き込まないよう、左側の車線をゆっくりと走った。
中央大通りを越え、NHKのある馬場町の交差点を直進した俺は、そのまま府警察本部の駐車場入口に車を乗り入れた。警備の警察官に、この建物の中で働くある人物の名前を告げ面会だと言うと、警備の警察官はすぐに内線を入れた。一分後、中へ入ってよろしいと丁重に告げられたので、俺は堂々と地下駐車場に入った。当然、レクサスは尾いて来られない。俺はすぐさま地下駐車場を横断し、本町通に面した別の出口に向かい、そこから今度は西へインプレッサを走らせ、谷町筋を南進した。しばらくして俺のスマホに、その『ある人物』からメールが入った。
『都合のいい時だけ俺の名前を使うな。天儀から聞いたが、今回は相当ヤバいヤマに首を突っ込んでるらしいな。おまわりさんは大抵いい人だから、本当にヤバくなったら助けを呼ぶように』
「けっ! よぉ言うわ」
それでも俺はメールを読み終えると、スマホを頭上にかざし、丁寧にお辞儀した。
俺はインプレッサを、店と契約している駐車場に停めると、そこから歩いて事務所に向かった。俺に脅しをかけたり、下手な尾行をつけているところからすると、連中がまだUSBメモリを手に入れていないことは明らかだった。
「ほな、どこにあるんや?」
俺は歩きながら庄司の携帯を呼び出した。なかなか出なかったところを見ると、まだ所轄の刑事と捜査を続けているのかもしれない。
「おまえら、マルガイの自宅のガサは入れたんか?」
「もちろんですよ」
「で、結果は?何か出たんか?」
「なあんもありません。ストーカーどころか、男に関する写真も資料も出ませんでした」
捜査本部はまだ変質者の線で動いているらしい。
「パソコンは押収したんか」
「パソコンなんかありません。ていうか、マルガイの部屋ほとんど何もないんです」
「どういうことや」
「服と家財道具があるだけで、本とかCDとか、マルガイの趣味嗜好に関するものが何もないんです」
「本籍地は?実家には連絡したんやろ?」
「それが、彼女身寄りがなくて、堺の養護施設で育ったそうです。そこの園長には遺体を引き取ってもらう予定です」
「で、自宅には張り番付けてるんやろうな」
「ええ、所轄に依頼してますよ」
どうやら自宅に隠している可能性は低いようだった。当然、連中も警察の見張りには気づいていることだから、迂闊に自宅には近寄れまい。そうなると会社か他の場所ということになる。
「よっしゃ、どっちが先にUSBメモリ見つけるか、勝負しようやないか!」
俺は命を狙われたことで、俄然やる気が出て来た。ホテヘルの事務所に行くと、店長がびくびくしながら店番していた。
「表のドアが開く度に、わたいドキってするんだす」
中学を出てすぐに丹波の山奥から上阪し、三十年近く丼池の繊維問屋に勤めていたという店長は、いまでも船場言葉が抜けない。趣味が高じたハッキングで懲役二年、執行猶予四年の刑をくらい、保護観察を兼ねて天儀の世話で風俗店の雇われ店長を続けているというこの男は、見かけは厳ついが、暴力にはてんで慣れていない
「心配せんでも、ここは襲いに来えへん」
「なんでだす?」
「ここには防犯カメラもあれば、いざという時、南暑へ直結する非常ベルもついてるやろ」
「ああ、そうでんなぁ」
やばいのは外だ。しかし、この店長に危害を加えることはないだろう。彼はこの事件のことは何も知らない。念のため、俺は今晩からデリの仕事は休むことにした。デリバリー中に襲われたら、何の関係もない女の子や客にも被害が及ぶ可能性があるからだ。
「ところで、ミエちゃんの私物とか残ってないか?」
「いやあ、あの子私物はおろかお菓子や食べ物もここへ持ちこんだことないですね。もっとも店に入るのは週一回程度やから、事務所でお茶を挽いてる間もありませんでしたけどな」
「サツがガサ入れの時持って行ったもんもないか?」
「出勤簿と、ミエちゃんの履歴書くらいだすなぁ」
となると、ここも違うか。俺は店長に礼を言い、天儀への定期報告に例のバーへ向かった。今日一日起こった出来事を報告すると、俺は尾行されたレクサスのナンバーをコースターの裏にメモして天儀に渡した。
「そしたらワシはその『梶本証券金融』たらいう会社と、このナンバー当たっとくわ」
「お願いします」
俺は早々にバーを出ると、カナの携帯に電話してみた。案の定、彼女は今日一日家に閉じ籠っていたという。
「なんか食べたんか?」
「ううん。でもお腹空いてへんの」
「でも、なんか食べなあかんぞ」
「わかった…」
俺はカナの家に向かうことにした。インプレッサは店と契約している駐車場に置いて行くことにした。車から尾けられると厄介だし、第一、二十四時間係員のいるタワー式の駐車場だから、爆発物を取り付けられる心配もない。俺は、ミナミの街へ出て、行きつけの寿司屋でカナの夜食を握らせている間、大将お勧めの活きのいいのを肴にビールを飲んだ。念のため裏口から出て、細い路地を何度も通り、堺筋に出たところでタクシーを拾い、夜は車の量が少ない本町通まで出てもらってから、松屋町筋のカナのアパートへ向かった。