本日は武蔵野線の府中本町〜新松戸の間の、当時は「武蔵野西線」と呼称された路線が開通してから50年になります。

小平市での建設工事は1969年(昭和44年)から始まりました。小平市内は高架線ではなく地下鉄道となり、青梅街道沿いに新駅(新小平駅)を設置の計画でした。大部分が畑の下を通る状況でしたが、たかの街道に隣接したプールの真下がトンネルとなる為に使用終了解体となり、現在は痕跡すらなく記憶にある方も稀少です。また、津田町のF氏宅も真下がトンネルとなる為に曳屋される光景を目撃しましたが、こちらも現存しておりません。津田町には工事関係者用の大規模な飯場が設けられ、従事者の師弟は小平市立第十五小学校に通学しました。工事現場は危険なので絶対に近付かない様に小学校では厳重に言われ、私は殆ど見た記憶がありませんが、畑を掘りトンネルを作る開鑿式と記憶しております。1971年(昭和46年)4月に飯場は解体され工事の完了を知りましたが、一部は地元の建設会社に譲渡され暫くは存在していました。現在の「NPO第二こだま小規模多機能介護サービスやまびこ」の場所です。また、近くには鉄道関係者用の「津田町立坑」が設置され、現在は住宅地の中に埋もれましたが、当時は空き地の中の目立つ存在でした。そして、同年秋に施錠されていない立坑入口(施錠忘れ?)からトンネル内に侵入した同級生数人が親同伴で関係者に謝罪する出来事がありました。

1972年(昭和47年)には西国分寺駅の建設も本格化して開通の日程も決まり地元では話題となりましたので、柏在住の叔母一家の訪問に利用する事になり、折角ですので一番電車に乗車する事にして、当日は父親と共に早起きをして新小平駅へ赴きましたが、乗車券は33番(写真参照)でしたので早朝から随分と乗客がいると驚きました。また、先着者には記念券を無料配布しており、当時は記念乗車券(記念切符)が通例の中で大変に珍しい存在でした。当時の武蔵野線は貨物列車主体でしたので、旅客用の電車は非常に本数が少なく2時間に三本の割合であり、予め時刻を調べて利用したものでした。また、車両も中央線からの中古車両(トンネル火災対策を追加)でしたので新鮮味に欠け、この伝統は現在でも脈々と維持されております。

半世紀を経て鉄道事情も大きく変化し、現在は旅客主体ながら貨物線としての重積も担う重要な武蔵野線です。

 

音楽史研究家 郡 修彦

 

当日に無料配布された記念券です。

現在よりも駅数が少ないのです。

一番電車の乗車用に購入した乗車券です。

記念に購入した10円の切符ですが、経年により印刷の褪色が激しい状況です。