北陸トンネル火災事故から半世紀が流れました。全長14キロ弱(13870メートル)の長大トンネルの中央付近で発生した列車火災です。大阪発の青森行きの15両編成の急行列車の食堂車から出火しましたが、深夜の1時過ぎですので食堂の営業終了後であり、原因は食堂車喫煙室椅子下の電気暖房装置の配線に起因するものでした。

現在の様な固定編成の列車とは異なり、当時は製造年代も目的も異なる車両を連結して一つの列車を構成していました。この急行列車もA寝台車・B寝台車・普通座席車・グリーン車・食堂車・郵便車・荷物車により構成され、寝台車は寝台料金により寝台による睡眠が可能、グリーン車はグリーン料金によりリクライニングシートによる睡眠が可能、普通座席車は指定席と自由席に分かれており、乗客数が多い場合は座して睡眠、少ない場合は横になり睡眠が可能な状況でした。

北陸トンネル走行中に乗客から火災の報を受けて停車し、消火器にて消火活動を行ますが鎮火し得ず、次の手段として食堂車の前後を切り離す作業に入り、11両目の食堂車より後方の12~15両目(普通座席指定車・グリーン車・郵便車・荷物車)の切り離しに成功、次いでの前方車両との切り離し作業中に煙と火災による停電にて不可能となりました。

当時は火災発生時には必ず停車する規定があり、停車しての消火は止むを得ない判断ですが、時速60キロで走行の場合は1分1キロですので、増速すれば5分程でトンネルを走り抜けられた筈でした。正確な火災発生時刻は不明ですが、深夜の長大トンネルを走行中に乗客が火災を発見した恐ろしい偶然には慄然とせざるを得ません。若しも誰も気づかぬまま北陸トンネルを通過出来たら、電気暖房装置の配線が完全であったら、火災の発生が5分程前後していたら、と考えますと実に不幸な出来事でした。

火元の食堂車は1960年(昭和35年)8月16日に落成の、高度成長期に廉価で大量の車両を製造する必要から旧車両の台枠を転用した車両でした。車体と台車は新品で、台枠のみが再利用ですが、この事実が正確に把握されておらず、今日でも戦前製の旧型客車と誤認した記述が見られ、事故の裁判時にも使用された程です。

食堂車のオシ172018の台枠は1930年(昭和5年)に完成した一等寝台車のマイネ37130で、特別室1室・二人個室4室・四人個室2室の全7室の高級車両でした。1935年には喫煙室をシャワー室に改造する試用が為された事でも知られており、1941年にマイネ381に改番、更に1955年にはマロネ491に改番され、1960年に廃車となり台枠のみを再利用に供した訳です。

半世紀を経ましたが事実の継承として記し、追悼の意を表します。

 

音楽史研究家 郡 修彦

マイネ38