母校の中野区立桃園第三小学校が本日、創立100周年を迎えました。残念ながら2008年3月末日にて少子化による統合・縮小計画の一環として廃校となり、現在は同一場所に同一校舎を使用した別の小学校があります。連綿とした伝統を断ち切り、名称変更にての再出発を巡り様々な見解がありましたが、伝統を軽んずる戦後の風潮の具象とも言え、卒業生としては残念な限りです。

50年前の本日、小学4年生の私は半世紀後の2022年の100周年には60歳の初老となり、如何なる感情を持つかと考えましたが、その日が来るに、学校は廃校、世には疫病と正しく地上とは有為転変と痛感しました。

但し、小学校の施設自体は体育館と一部校舎の改築の他は50年前の校舎が現役であり、1972年には創立時の校舎が皆無の事を思いますと不思議な感がします。本日、久々に再訪致しますに周囲は随分と変化しましたが、学校自体は多少の変化はあるものの在校時の雰囲気が濃厚に残るのは嬉しい限りでした。

中野区立桃園第三小学校は1940年と1950年の火災にて資料等が焼失しており、校歌も制定当時の原譜が失われ原調からの移調と作曲者の意図とは異なる編曲が施されて使用されておりました。私は1992年の創立70周年時に校歌の調査をし、作曲者の遺品から原譜を見て結果を70周年記念誌に発表しました。今回は制定当時の絵葉書を入手しましたので、原調(ニ長調)と作曲者自身の編曲を見る事が出来ます。この楽譜が在校時に存在していればと思うと今更ながらに残念ですが、100周年の年に入手・公開出来ます事は卒業生として嬉しい限りです。

 

音楽史研究家 郡修彦

1929年の校歌制定から1941年の国民学校発足までの間