2018年11月6日

本日は150年前の太陰暦9月22日であり、会津戦争が終結した日です。既に会津地方は冬が間近であり、東北の冬の厳しさを知らない新政府軍(西軍・偽官軍)と持久戦になれば有利になった可能性が有ります。それを承知で戦争の終結を急いだとの説があり、1812年のロシア対フランスの様に展開したかも知れません。
実は会津戦争に際して遊撃戦か籠城戦かで戦略が分かれ、結果として籠城戦を選択しました。私の先祖は軍事奉行で遊撃戦を主張したとの証言があり、戦争は名を捨てて実を取る必要が時により生じます。ですので、最終的な勝利か和睦の過程として城の有無よりも戦争の展開が重要である点を先祖は見抜いていました。そして、戦争中は勇敢に戦いましたが無駄死は避け、終戦後に相手側に処分を委ね、結果として戦犯にて自刃しました。戦争中に責任を取り自刃するのも一つの美学ですが、雌雄を決するまでは戦い抜き、戦後に一任する事が真の責任感と私は考えます。
会津戦争の降伏式は1876年(明治9年)に早川松山が描いた錦絵が有名で良く知られておりますが、実際に同席していない人物が描かれた創作であり、私の先祖も「茅野政修」の名で老人(実際は数え年41歳)として描かれております。実は直後に発行された瓦版の版画が真実に近いと思われ、新政府軍の将兵の様子も、会津側の武士の様子も当時の形態を良く捉えております。
私は季節感を重要視しますので、矢張り会津戦争の終結は太陽暦換算の本日でなければ、当日の気候や大気を実感出来ないと考えます。ですので、忠臣蔵も新暦換算でないと降雪は有り得ない訳です。
明治100年と言われた1968年から早いもので半世紀、150年を経た会津戦争終結の本日に歴史の彼方を偲び一文を記しました。

音楽史研究家 郡修彦