2012年9月12日

 昨今話題のスペイン北東部ボルハの教会の壁画修復に関する概要が判り、東京駅復原と同類と納得しました。
基督の壁画の傷みが激しく、地元の画家に修復を依頼した処、原画とは異なる基督像に描き直され、当人はこれが修復と反論したとの結末です。
 東京駅の南北ドームが正しく同類で、最上階以外は竣工当時とは似ても似つかない現代風の味も素っ気も無い内装となり下がり、これが過去と現在の融合と宣伝している辺りが酷似しています。二階部分の回廊の意匠の下劣さ、ドーム直下の竣工当時風の6本の柱は直径が異なり均衡を欠いております。修復や復原は個性を主張してはならず、個性を主張したいなら新作に専念すべきです。
 そこで思い出すのが1991年の拙宅の増築です。母屋は1950年の新築ですが、1968年の簡易増築は老朽化が著しく本建築による再増築を決め、中学の同級生の建築家(現在では有名人)に「同規模の本建築による増築を」と依頼しました。出来上がった図面は、庭の真中に東屋があり、家具からベッドまでが配置され、母屋からは敷石伝いに移動する案で、荒天時には傘が必要な設計です。驚いて「同規模の本建築による増築を」が依頼内容と確認すると、自分は建築家であり、これ以外は不可能であり「同規模の本建築による増築」なら工務店へどうぞ、と言うのです。何という思い上がりと呆れ、注文主の意向を無視して自己主張するのが建築家と納得し、自己主張が全てであると知りました。
東京駅復原も基督壁画修復も、根は自己主張なのです。双方共に完全な復原や修復なら見事な手際が後々まで偉業として語り伝えられるでしょうに、自己主張は一代限りの一瞬で顰蹙も伴うものなのです。
 小生なら自己主張よりも完全復原や修復の偉業を採りますが。

音楽史研究家 郡修彦