2018年10月8日

会津若松城下に新政府軍(西軍・偽官軍)が侵入したのが太陰暦1868年8月23日で、太陽暦の10月8日に当たります。この日は籠城戦による武家家族の去就に際し、多くの婦女子が自邸にて自害しており、白虎隊の一部兵が飯森山にて自害した事でも知られております。
この日、私の先祖も自邸から三の丸に移動しますも、婦女子は足手まといとの当主夫人の判断から全員自害と決まりますが、本丸からの連絡により籠城戦の一員となりました。この時に曽祖父は数え年11歳(満10歳)現在の小学5年生相当でした。曽祖父の回想が幾つかの文献に有りますが、正しく間一髪との事です。武家の教育では死は恐れませんので自然・当然であり、状況の変化にての籠城戦への参戦も流れとして当然でした。状況に応じて一瞬で生死の判断を下すには矢張り日頃からの教育や鍛錬が大切であり、遺憾無く示されたと私は思っております。
白虎隊の退却兵は10月8日の気候の中で水路を抜けて飯森山へ到りますが、前日の雨や気温を考えますと困難な戦闘であった筈であり、疲労困憊により全力を発揮し得ず万全の戦闘が不可能な以上は自害するとの判断も、矢張り日頃の教育や鍛錬の結果と申せましょう。
この10月8日の敵軍の城下侵入により籠城戦が開始されますが、会津若松城は実戦経験豊富な加藤嘉明による改修により難攻不落の城となり、落城には到りませんでした。普通の城は正面入り口である「大手門」が堂々と存在しますが、会津若松城は内堀沿いに一周しても全く見えない様に設計されており、敵軍は江戸城に秘蔵されていた諸大名の城郭図から会津若松城の図を略奪して戦闘に備えたのです。しかしながら図面が有れども攻略は困難であり、大手門外側の「北出丸」への接近すらも城内からの射撃にて困難を極めました。この「北出丸」は入り口への通路が急に狭くなり一度に大勢の軍勢が入城出来ず、入城すると大手門と周囲から丸見えとなり格好の標的となる設計です。流石の敵軍も多勢にての攻略すら不可能となり、包囲戦へと移行したのです。

音楽史研究家 郡修彦