2012年9月9日

 青春18切符にて飯田線へ赴き、嘗て少年・青年時代に撮影した場所を再訪する旅を行いました。
 1978年8月、当時16歳で高校1年の小生は初めての一人旅に飯田線の撮影に赴き、東海道線の夜行(有名な347M)で一泊し、翌日は飯田線の水窪で一泊しました。その時の宿泊施設(旅館ではなく公営の施設)の様子の確認が今回の目的の一つで、現在は水窪には宿泊施設は無いとの情報を得ており廃業したと思われましたが、ネットでの検索では具体的な情報が得られませんでした。
 34年前に比して飯田線も本数が減り、水窪で日中2時間を取れる行程を組み赴きました。34年前に宿泊施設を紹介してくれた駅は無人となり(当時は予約はせず、下車した駅で探す方法を採っていました)、記憶を辿り川の上流へ進みますと、電気施設があり記憶に全く無く、手前か奥か判然とせぬまま前進しますと前方に二棟の建物があり、手前が目的の建物と瞬時に判りました。現在は廃屋となり、1974年竣工と玄関脇の石版で判りました。奥は民俗資料館で、受付で問いますと宿泊施設としての営業終了後に民俗資料館として使用し、1996年に新館に移転と伺いました。営業終了時期は不明でしたが、資料館として1995年までは使用されていた事が確認出来ました。
 見学後に旧館を玄関から見ますに、展示物の撤去は一切行われておらず、宿泊施設に殆ど手を加えずに転用した事が、玄関・受付・洗面所・階段から直ちに判明しました。それは、34年前の記憶のままで、見ているうちに当日の夕食の献立を思い出す程でした。当日は学生の合宿にて大入りで、脇に4棟ある4人用の丸太小屋となり、宝塚から写真撮影に来た青年と相部屋になった事も思い出しました。 
 さて、本題のダイヤル通話ですが、高校生の一人旅ですので毎日両親に報告の電話を入れる約束で、この施設の一階受付にて電話の使用許可を取りダイヤルを回しますと、相手先の番号を職員に聞かれました。そして、ダイヤルにては繋がらぬと言われ、家の電話番号を書いて渡しますと、職員は受話器を上げて番号を告げてから受話器を置きました。少しすると電話が鳴り、職員が出て私に渡しますに、交換手が出て先刻の番号に御繋ぎ致しますと言われて両親に報告をしました。16年の人生で、交換手に番号を告げて受話器を置き、繋がると電話が鳴る方式を初めて見て大いに驚きました。交換手を呼び出す方式は戦前や離島位と思っていたからです。同世代でも僻地以外の人は殆ど知らない方式の筈で、何とも珍しい経験をしました。それから半年後の1979年3月14日に全国電話自動化が完了となった事を記念切手の発行で知り、寸前で得がたい経験が出来た訳です。
 今回、その受付は34年前と寸分違わずに残っており、4枚の窓硝子もカウンターもそのままでした。携帯電話すらスマートフォンに押される時代に、少年時代の電話事情を思い出した次第です。

音楽史研究家 郡修彦