日能研登戸校とクラウドナインスタジオ登戸
2023年10月31日に営業を終了したクラウドナインスタジオ登戸は、建物の解体作業も完了して現在は更地ですが、建物の竣工時から1992年(平成4年)7月12日(日)までは日能研の登戸校がありました。私は1990年3月から1991年3月まで同校にて国語を担当しており、その後も登戸を通る度に建物を確認して往時を思い出したものです。登戸校は1階が受付と職員室、2階から4階は各階2教室の合計6室で小学4〜6年の授業を行い、空調設備はありましたが防音は無く、小田急線の音が絶えず響く状況でした。1階入口の上部に旧社名の「登戸能率進学教室」の文字があり、生徒から度々質問を受けたものです。南武線と小田急線の交差地点ですので、周囲の様々な地区の小学生が集まり盛況でしたが、手狭になり向ヶ丘遊園に移転。その後は少々時間を経てスタジオとなりました。当時の南武線の北側には商店が少なく川崎市立多摩病院の場所は工場、商業地区は南武線南側の小田急線を挟んだ南西地区と南東地区でした。登戸駅は南武線も小田急線もいずれも現在よりは規模が小さく、戦後の雰囲気が色濃く残る状況でした。南東側に小さなロータリーがあり、周囲は商店が軒を連ね、その東のマーケット(1992年末〜1993年初頭に焼失)は正しく戦後の風情でした。南西側は再開発まで商店が残り比較的最近まで当時の様子を保っており、玩具店は塾生の社交場の様相でした。現在では区画整理で道路が全く異なりますので、現在ではグーグルストリートで当時を偲ぶより他はありません。また、食事の調達は現在よりも不便で、私は南武線の下河原踏切南東のビル1階の弁当屋を利用しました。毎回ハンバーグ弁当でしたが、ある日に生徒から「あの店のハンバーグは奥の湯槽で温めており、注文があると客に見えない様に封を切り容器に移します」と言われ、次回から観察しますに然りで、良く観察していると感心したものです。その生徒とは現在も交流があり、登戸の思い出話の一つでもあります。多摩川の堤も現在とは様子が異なり、休日を中心に営業する茶屋・酒場があり、堤の下は直ちに多摩川(現在は広い河川敷)で、貸しボート屋の木造船が係留されていました。刻々と変化を遂げる登戸も数年で完全な近代都市となり、戦後の街並みは思い出の彼方になりましょう。音楽史研究家 郡 修彦