「靖国への帰還」(著者:内田康夫 幻冬舎文庫)は時空を超えた英霊が問いかける

歴史ロマンです。「靖国で会おう」と誓い、日本国を守るために散華した靖国神社に

祀られる英霊の魂の叫び。



防風林で出会った少女のことを想いながら戦闘機で出撃していった若者が現代の日本にタイムスリップ。変わり果てた日本に愕然としながら生きようとする姿。「靖国神社がこんなに軽く扱われているなんて・・・」



タイムスリップした若者は年老いたかつての少女と再会。靖国に祀られているはずの若者が目の前に現れて老女は言葉をなくす。



「靖国への帰還」(著者:内田康夫 幻冬舎文庫)は架空の物語ですが、日本国を守るために散華した英霊を祀る靖国神社が軽く扱われているのは紛れもない事実です。物語の英霊の叫びは現代の我々が重く受け止めるべきことです。



靖国神社は国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創建された神社です。「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込め、明治天皇の思し召しによって、明治2年に建てられた神社です。



先の大戦だけでなく、日清・日露戦争などの国難で、国を守るために尊い生命を捧げた246万6千余柱の方々の神霊を身分や勲功、男女の別なく祀っている場所なのです。



昭和49年まで日本軍少尉としてフィリピン・ルバング島で遊撃戦(ゲリラ戦)を展開した小野田寛郎氏は「日本兵が戦友と別れる際、靖国で会おうと誓って戦地に旅立っていった。国は死んだら靖国神社に祀ると約束しておいて、敗戦したら靖国など知らないというのは余りにも身勝手だ。」と述べています。



また、「靖国神社と全く違う追悼施設をつくるのは死んだ人間に対する裏切りだ。」「靖国神社と別の追悼施設がつくられるのであれば、死んでも死にきれない。」と小野田氏は述べています。一度、戦死広報が出て、靖国神社に祭られたことのある小野田氏の言葉はとても重いものがあります。



そもそも、日本に戦犯など存在しません。日本がサンフランシスコ講和条約を調印して独立を果たした1952(昭和27)年、日本政府は「戦傷病者戦没者遺族等救護法」を成立させ、戦死者の遺族に遺族年金を保障することを取り決めました。



そして翌年の1953(昭和28)年、戦犯にも救護法を適用して、戦犯の遺族に同等の遺族年金及び弔慰金を支給することを決定しました。



戦犯の遺族に年金を支給する法改正は保守系の自由党や改進党だけでなく、左右両派社会党まで賛成した全会一致で実現したものでした。



さらに、1954(昭和29)年に恩給法が改正され、戦犯として処刑される前に拘留中に獄死した人やその遺族にも同様の補償が約束されました。



日本政府としては戦死も戦傷病死も戦犯による刑死であっても、すべて国家のために犠牲になったとして、政府の認定により、その扱いに一切の差をつけないと決定したものだったのです。



つまり、日本から戦犯という存在がなくなったということなのです。戦犯の刑死は恩給法改正によって法務死とされたのです。A級、B級、C級に関わらず、紛れもない国家のために尽くした功労者であり、戦犯などではないのです。



現在では、こうした戦犯の方々も靖国神社に祀られていますが、何故か「戦犯が祀られている靖国神社に総理大臣をはじめとする政治家が参拝するのはけしからん。」と非難する勢力が跋扈しています。



特に、A級戦犯が合祀されている点をもって、中国や韓国が靖国神社を非難することは絶対に容認できないことです。



1959(昭和34)年にB、C戦犯の方々が靖国神社に合祀され、A級戦犯の方々が合祀されたのは1978(昭和53)年でした。B、C戦犯のみならず、A級戦犯の方々が靖国神社に合祀されたとき、中国・韓国は何も抗議をしていません。



靖国神社が大きな問題となるキッカケとなったのが、昭和60年に朝日新聞が中曽根首相の靖国参拝に対し「中国が厳しい視線で凝視している」と書いたことでした。



戦犯が合祀されたときには何も抗議してないにもかかわらず、現在これだけ中国・韓国が反発して日本を揺さぶるのは、日本を攻撃する格好の材料として利用しているだけなのです。中国・韓国が反日国家であることをよく表れています。



日本に戦犯など存在しないのです。日本国のために尽くした功労者が祀られている靖国神社を中国・韓国に非難される筋合いなどないのです。「靖国への帰還」(著者:内田康夫 幻冬舎文庫)を読んで改めて思いました。

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